2008-12-25

久々に読んでる本

 宮本輝の『本をつんだ小舟』を読んでいるのですよ。宮本輝読むの久しぶり。母が古本屋で買ったという95年出版の文春文庫です。(何気に初版本だ)
 ああ、久々だわ、そう、この関西弁の会話文が何より心地良いの。

 なんかながーい小説が読みたくなったので、実家から『日本探偵小説全集4 夢野久作集』を持ち出して『ドグラ・マグラ』読むことにしました。読めるかしら。

2008-12-20

村上春樹 神の子どもたちはみな踊る 思いつきメモ

 『鏡のなかの鏡』のようにモチーフでつながっているのではないかと思って読んでみる。

UFOが釧路に降りる アイロンのある風景→からっぽ
アイロンのある風景 神の子どもたちはみな踊る→お酒
神の子どもたちはみな踊る タイランド→石の心=心の石
タイランド かえるくん、東京を救う→へび=みみず
かえるくん、東京を救う 蜂蜜パイ→小説
蜂蜜パイ UFOが釧路に降りる→箱

 で綺麗につながりましたが、どうでしょう。(お酒が強引かな...)

2008-12-09

朝の教育番組「にほんごであそぼ」

 最近朝、延々教育テレビを見ています。(ニュースが見られないので。民放テレビもほとんど見れない。映画は大丈夫、バラエティはほぼ全滅。NHKは大丈夫)
 「にほんごであそぼ」で最近EDに流れるのが宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』を子どもたちが歌った歌です。たまっぽい素朴な感じの曲で(しょぼたま路線、桶とかカンカン叩いてるみたいな音とか音程外し外し歌ってるとことか)これがすごーく胸に響くんですよね。「そういうものに~わたしはなり~たい~♪」とか一緒に歌っちゃうほどに。本当に一見の価値ありなので、暇な人は見てみて下さい。

 その前のエンディング曲は金子みすゞの「私と小鳥と鈴と」で、こちらもよかったです。konishikiさんが中心になって歌っていました。この人(金子さん)どうして自殺したんだろーと思っていたのですが、(こんな暖かな自己肯定の詩を書いておきながら)wikipediaを見るとそういうことか~と思いました。

2008-12-02

暮しの手帖 36

「朗読のじかん」より
小山正孝『山居乱信』

(ここは野原ではないから 僕たちは虫ではない)
「虫だつたらどんなによかつたらう」
複眼だから 多数の草の葉
たくさんの君の姿 数かぎりない心の屈折
(山居乱信 2節より)

 久々に衝撃をうけた文章でした。

2008-11-17

リンク

お引越しがやっと完了したので、ここからリンクしておきます。

**Steve Buscemi** Pretty Mouth and Green My Eyes.

アメリカの俳優スティーヴ・ブシェーミさんのファンサイトです。映画の感想あります。
あまりにも訪れる人が少ないので、誰か読んでいただけると嬉しいです。えへ。

2008-10-29

スコット・フィッツジェラルド グレイト・ギャツビー

 村上訳で読み野崎訳でも読んだのに、感想を書かなかったのは、やはり「うーん...どこが面白いのか分からない」から、だったんですが、なんとなくぼんやり考えて、なぜ自分がこの物語をあまり理解できないのか、逆に村上春樹はなぜこの物語を生涯の一冊に選ぶのか、少し分かったような気がするのでそれを書こうと思います。
(だから正確にはグレイト・ギャツビーの感想じゃないんだけどね)
 村上さんは"失った"ということをいつも主題に持ってくる人です。それは言い換えると、"自分は(ものすごく大切な何かを)失った人間である"ということを認めている、ということであると思います。そして私がその手の喪失感に対して、ある程度は共感もするし、理解できるんだけど、あまり人生の一大事と考えないのは、私が失われた自分を認めていないから、なのではないかと思うのです。
 私は人生とは絶え間なく失い続けるものだし、一度失ったものは二度と手にすることはできないし、人間最後は必ず死ぬわけだから、例えもし何かを手にいれたとしても、獲得したものは最後には手放さなければならない、そういうものだと考えています。しかし喪失感というものは抱えるのが難しい感情だと思うんですね。自分は大切なものを失った、今の自分は完全じゃない、失われた者としての自分に果たして価値はあるのか?そう考えながら日々生きていくというのは、とても辛いことです。
 だからこそ私は、喪失を"なかったもの"として扱います。私はこれまで大切な物なんて、一つも手にしたことはない、手にしたことのないものを失うのは不可能です。
 それはずるい逃げ口上です。私は生まれた時既に手にしていたし、失ったのも事実だからです。けれどどうしても私は失った私を認められないでいます。

 『グレイト・ギャツビー』は、主人公であるジェイ・ギャッツが一時手にし失ったものを取り返そうとする物語です。作者はおそらく私と同じように、一度失ったものはもう二度と手にすることはできない、という考えを持っているのだと思います。ギャツビーは最後、彼の人生には無関係といっていいような人に殺されます。彼が
手にしたいと願ったものは彼の手をすり抜け、その手に残らなかったうえに、彼は無情にも殺されその人生を終えます。しかしこの物語が村上さんに与える印象はそこの部分ではありません。彼が喪失しながらも、必死で手を伸ばし、再び手に入れようともがく、その姿にこそ価値を見い出し、あさましくもなりかねないその姿を肯定し、暖かく美しく描き出している、そこにあるのだと思います。
 村上さんはこの物語を読んで自分は肯定され保証されていると感じるのではないでしょうか。
 先にも書きましたように、私は自分が失われている存在であることを受け入れることができません。いつか私も「グレイト・ギャツビーおもろい」と思える日がくるのでしょうか。春樹さんは自分にとって"喪失"のテーマは一旦解消されたものだと言っていたように思います。確かに初期作と最近の話は全く雰囲気違いますし、『ねじまき』で取り戻す物語を書いていますしね。不思議なことに、(あるいはごく自然なことに)村上さんの初期作は私は割りと苦手です。『風の歌を聞け』なんて2回しか読んだことないです。

2008-10-15

私たちの年代

 私たちの年代、というとき、そこには薄暗いものしか存在しない。
 私たちはバブル経済の真っ只中に生まれ、自意識を持った一人の人間として生き始めた頃に、その崩壊を目の当たりにした。14歳の犯罪が世間を騒がせた頃私たちは14歳であり、キレる17歳が話題になる頃17歳であった。私が18の時少年犯罪史上まれに見る凶悪犯罪「栃木リンチ殺人事件」は起こり、そこでは19歳の少年があらがえない暴力の中死んでいった。女子高生の援助交際が問題となったとき私たちは女子高生であった。私が14の時阪神淡路大震災があり、少しして地下鉄サリン事件が起きた。私が21の時父は会社をリストラされた。私が20代前半の時二十歳前後の女性の処方薬や市販薬の乱用が新聞で報道された。リストカットする少女たちがテレビでも取り上げられるようになった。
 私が思うに、私たちの年代は宗教に走る道を閉ざされた世代なのだと思う。母にあんたはオウムみたいなところに行きそうだから心配だと言われたことがある。ある意味、オウム真理教はその年代のある種の人々の行き着く先であった。しかし私たちは宗教が時に社会悪になるのだということを実にセンセーショナルな形で知らされた。宗教に走る道を閉ざされた私たちが行き着いたのが心療内科通いであり、"うつ"と呼ばれるものの凡化であり、集団自殺がこれほど流行った経緯であると思う。私が高校生の時親しかったほとんどの友人がなんらかの形で心を病んでいたのも今なら頷ける。私たちの世代とはそういうものなのだ。
 いったいどこに希望を見い出せばいいのか私には全く分からない。自分自身就職難の時代に就職し、働いていくことの困難さは嫌というほど味わった。運よく就職できたとしても、長年働き続けた職場からあっさり首にされた父を目の当たりにした。私の近しい人には今のところいないが、知り合いの兄がフリーターだとか、友だちの弟がニートしてる、なんて話には事欠かない。
 いわば私たちは生きる希望も逃げる道もないままに社会に放り出された迷い子だ。バブルの時は指をくわえて見ているしかなかったし(思えば少し豪華な家族旅行といった形でその恩恵に預かることはあったが)大人になればいろんないい思いができるのだと期待する間もなく、不況に見舞われ、年に一度の家族旅行もなくなり、大学に進学できるのかさえ危ぶまれた。私が大学に行けたのも単にたまたま私のやりたいことと授業料の面で折り合いがついたからである。姉は優秀だったので公立の高校に通い、国立の大学に受かったが、私のようにやりたいことのために苦手分野でもある程度の頑張りを見せるという能力にからきしであるような場合、選べる道はそうたくさんはなかった。
 何も嘆いているわけではない。ないと思う。時代のせいにするつもりもない。
 しかし考えてみて欲しいのだ。私たちがくぐり抜けてきた道は容易いものではなかったし、これから行こうとしている道もまた、灯りもなしに進むいりくんだ見知らぬ路地のように、暗く閉ざされている。
 もう一度言おう。私たちは何を希望に生きていけばいいのだろう。困難な人生を生きるのに希望なんてものは何の役にもたたないのだとしてもだ。

2008-09-26

阪本順治 闇の子供たち(映画)2

(続き 引き続き反転)

 映画を実際に見るまでは可哀想で悲惨な子どもたちの現状に涙するやろうなと思ってた。でもいざ映画を見ると意外に自分が泣いたんは、南部という男の人の葛藤に触れた時やった。買ったパンフレットによると、可哀想な子どもたちにクローズアップしてしまうと、結局ペドフィリアの人を喜ばせてしまうものになる、だからそれだけは避けて欲しいというどっかの大学教授の進言があったとのことやった。
 映画のラスト、鏡の周りに一面に貼られたペドファイル達の記事、そしてその真ん中の鏡に、与田と清水の顔が写っている。お前は本当に加害側にならないといえるのか?いや、お前はすでにその側の人間ではないのか?自分とは関係ないものとしてしまえるのか?
 買春ツアーというものがが現実にあり、多くの日本人がアジアやその他の地域で子どもたちに虐待行為をしている。私はなんと言っていいのか分からなかった。今も分からない。


 お前は加害側にならないと本当にいえるのか?これは辛い問掛けやと思う。劇中白人女性が子どもを買っているシーンもある。確かにレイプの被害に合うのは女性のほうが圧倒的に多いし、この問題を考えるときいかに自分の身を守るのかということに目がいきがちやとは思う。
 しかし自分の心をえぐって考えると、可哀想な子どもを見ておきたい、その悲しみを抱きしめてやりたい、という動機は一見美しいものに見えるが、もちろん多分に利己的でもある。この傲慢な心はきっと誰かを、彼等を傷付けることになるやろう。
 劇中、宮崎あおい演ずる音羽という女性が、我が子に違法な移植手術を受けさせようとする夫婦に、タイの子どもの一人の命を犠牲にしていいと思っているのか、手術は中止して下さい、と懇願する。私はどーもこの音羽という女の子が気に入らなくて、終始感情移入できなかった。大学で福祉を学んだそうだが、福祉を学んだ人間なら、福祉で人を救えない現状を腹の底から分かっていなくてはならない。大学で何を学んだんだよと言いたい気分だった。この時、夫婦の母親のほうが、なら私の息子を見て下さい、と言う。寝たきりで管に繋がれたまだ幼い息子を見てくれと。しかし画面にはこの子どもは写らない。私はそれをしっかり見せるべきやったと思う。
 綺麗事なら誰にだって言えるのだ。しかし消えゆく命を前に、我が子が助かる道があるのに、それを手放す勇気は誰でも持っているものではない。
 監督の言によれば、音羽という人物は、僕のように(阪本さん自身)自分のことしか考えられない人間にとって、一種の憧れのようなもの、とおっしゃられていて、男の理想の女というのはなぜこうもうざいんやろうと少し苦笑してました。
 まあその話は置いといて。
 私自身のことを言えば幼児に対する愛着のようなものは人より多く持っていると思う。それが一般的に言う母性愛のなせるものとは少し違うというのも自覚している。やはりどこか、これは自分なんだという思いがある。好奇心もあると思う。(2歳の男児がソドミイされ喉から腹にかけて切り裂かれ、挙句井戸に放り込まれ発見されたその遺体を見たいという思いが、純粋に善なる心から出たものであるとは、よう言いきらん)
 私は死体の写真を見るのにあまり躊躇しない。それは死を実体化するための行為であり、自分自身の死と距離をおくための儀式だ。私もいつか、このようにして死ぬのかもしれない。代替行為であり、死というわけの分からないものを少しでも自分の中に固着させるための、私が考えた一つの方法だ。しかしいくらいい訳をしても、拭えない疑問も残る。自分の異常性に目を向けずにはいられない。


最近よく聞く曲→GO!GO!7188『映画と雨降りの朝』

阪本順治 闇の子供たち(映画)

 ふだんはこちらで映画の話はしないことにしているんですが、内容が内容なだけに今回はこちらで。ここ数ヶ月の記事の意味も明らかにしちゃいましょう。
 ネタバレ、暴力的な内容にも触れます。読むのは自己責任でお願いします。以下反転。

 ちょっと気分を変えるために大阪弁で書きます。(私人の口調移りやすいんで、他県の言葉も混じると思う。俺語だと思って聞き流して下さい)

 まず明らかにしとかなあかんのは、どの立場で書くかいうことやと思うんです。最初にこの映画見に行こう思たんは、どんなに悲惨な現実であろうと、目をそらさんでちゃんと見なアカンと思たからです。ここ数ヶ月、なんでか知らんけど、悲惨で残酷で悲しい現実を、訥々と観覧するのが日課やったんです。栃木リンチ殺人事件に 始まり、主に国内の殺人事件のサイトを読んだりしてました。死体の写真もいくつか見ました。ほんで打ちのめされた気分になってました。あんまそういう話って誰彼に聞かせるもんやとは思わんし、一人そういう悲惨な現実に向き合ってると、心はぶずぶずに荒んでいくもんですな。ちらっとそんな話を人にした時、言われたんが「 (私が見ているものって)優しさとか思いやりとかとはずいぶんかけ離れたものみたいやね」「そういうものって人によって引っ掛かり方(心に残る残り方)が違うと思うねんけど、もしかしたらその引っ掛かり方が、あなたが生きていく上で、辛いことの一つなんかもね」
 そういうもの(優しさとか思いやりからかけ離れた世界)から目をそらしてもいいんちゃうか?という一つの提言やってんけど、あたしはこれを聞いた時に「あたしはどんなに辛くても目をそらしたらあかん」と決意をあらたにしてんな。誰が忘れようと世間が忘れようと、あたしだけは覚えてる、忘れへんで。それが唯一私にできる事やと思ってん。
 栃木リンチ殺人事件てなんでか知らんけど、昔から私の心にものすごいショックと、でも目を背けてはいけないんやという義務感を与える事件やった。起こった当初からそう思ってたし、ちょうど事件から5年たった時、被害者の方のお父さんがTVでインタビューを受けているのも、意図したわけではないけど、見ました。それを見たとき、ちっと忘れとってんな、ああ、この事件があたしのところに帰ってきた、そう思った。被害者の方と、そして加害側の人たちと、年齢がそうかわらんというのも一つある。(みんな私の1個上)自分と同じような年の人がこれほどの苦痛の中で殺されていったこと、これほどの暴力を私と同じ年の男の子たちが一人の人間に向けたこと。私は時々、シャワーを最高温度にして、自分にかけてみたいと思うねん。ポットのお湯を汲む度に、どれほど痛かったか、怖かったか、絶望したか、思いを巡らさずにはおれへん。
 この映画を見る前に、とある動画を見ました。最初はそれに関する文章を読んで、なんか悲惨な事件やってんなと思うだけやってんけど、一つ、被害者が子どもたちやというのが、すごい引っ掛かってんな。見た人は口々に「かなりのショッキング度」「グロい」「悲惨過ぎる」と言うてたけど、なんでそんなことが起こったんか、事実誰と誰の争いのために子どもたちは殺されたのか、意外と情報は少なかった。しかも問題の動画はyoutubeから削除されてて、見ることができひんかった。そいで色々調べて、私はこの動画だけは見とかなあかんものやと強く思うようになった。ほんで結局見れてんけどな。googleで検索してはいけないワード、インドネシアのポソで起きた宗教対立、そのはての虐殺事件。ちなみにgoogleではもう見れへんくて、yahooで検索かけて、出てきたページで見れました。
 その時出た言葉が真心なんて通用世界もあるな、でした。

2008-09-17

 

さみしさや切なさはいいものです。それは向き合ったり、たたかうものではなく、抱きしめてあげましょう。『暮らしの手帳 秋号 2007』より

2008-08-12

 

 真心なんて通用しない世界もあるね。

2008-08-04

ランボオ 地獄の季節

「死を手に入れる事だ、お前の欲念、利己心、七大罪のすべてを抱えて」
 ああ、そんなものは、もう抱えきれぬほど抱え込んでいるよ、

(『地獄の季節』岩波文庫2008年P8序文より)

悪胤
これがフランス人の生活というものなのか、ああ、名誉への道とは。
(P20)

 ランボーは一人称"俺"のほうがしっくりくるような気がします。"僕"はちょっと違う。なんでかなーと考えてみると、多分ランボーがまだ10代の少年でありながらすでに爛熟してしまっているから、多分それは彼がフランス人だから、なんだなあとこれ↑を読んで思いました。

錯乱Ⅰ 狂気の処女 地獄の夫
 夫を"つま"と読み妾が"わたし"で、夫を"あれ"(以下斜体は傍点)と呼び『女なんか愛していない』と叫ばせ、妾は優しい手に抱かれながらあれの中へと入っていき、あれは働こうとはせず、妾はただ旅のままに生きたいと願い、しかし決してあれの悲しみは妾には理解できず、根性曲がりの馬鹿男は女を殺す、『この男がこの女を殺しちまったように、お前は俺を殺しちまうだろうよ。』そうしてあれはまた母のようであり姉のようであり、全くの子供であり、何より『悪魔』である、人間ではありません。
 詩の感想って苦手だ。
 一応「訳者後記」にこの「地獄の季節」はヴェルレーヌと二人放浪生活をしている時に書かれた、とあります。(そしてヴェルレーヌがランボーを撃つ事件もこの時期にあったそうです)というわけで自然とこの地獄にいった夫と道連れの妾の「おかしな夫婦」をランボーとヴェルレーヌにあてはめて読んでしまうわけですが、このようにどちらがランボーというわけでも、ヴェルレーヌというわけでもなく、どちらが男でどちらが女というわけでもなく、そのどちらにも身をひるがえしながら、どうしてこの人はあんなにこの世からさまよい出ようとするのかと考えながら、妾は眠っているあれの愛しい身体の傍らで、幾度となく長い眠られぬ夜を過しました。(この時のあれはどちらかというとランボーのような気がする)なんていっていたり。純愛だな。
 私この詩すごく好きです。なんで新潮版には「錯乱Ⅰ」が入っていないんだろう...。

言葉の錬金術
 格好良いですね。聞き給え。この物語も数々の俺の狂気の一つなのだ。云々。

野菜のサラダや果物の
もがれるばかりでいるものを、
垣根の蜘蛛めの食うものは
ただ、紫の菫草。

ああ、眠りたい、煮られたい、
ソロモン王の祭壇で。
スープは錆の上を駆け、
セドロンの流れに注ぐのだ。

 このあたり暗唱しました。

不可能
 ――だが、あの科学の宣言以来、キリスト教が、人間が、わかりきった事をお互に証明しては、ふざけ合い、証明をくり返しては悦に入り、およそ外に生きる術がなかったというところにこそ、まことの罰があるのじゃないか。(P52)
 だそうで、うん、キリスト教の罪をばっさり。いや、仏教も同じようなところあるからな。

 俺の精神よ、気をつけろ。過激な救いにくみするな、鍛練を積む事だ。――ああ、科学は俺たちの目にはまだるっこい。(P53)
 ううむ、書き出しているときりないですね。

2008-07-18

村上春樹 短編の感想

 一応、年代順に並べて、1個1個の短編についても語るけど、まとめて読むと「村上春樹論」(って恥ずかしいですね)になっている、といいなあと考えていて、ああいう並びなんですが、やはり最後を「ハナレイ・ベイ」でしめるのは寂しいなあとも思っていて、つい先日「アフター・ダーク」を読んだので、大好きな「蜂蜜パイ」とつなげてきれいに明るく希望をもって終りにしたいと思います。
 こちら
 (ここに書くとネタがつきちゃうけど。重複したらごめんなさい)アフター・ダークって私すごい好きなんですよね。多分設定がうちの姉妹と似ているところがあるから。(もう若い姉妹じゃないけどさ)(しかもうちは姉は頭も良くてもてる。妹は...)ドンリちゃんもいますし。従姉妹が父方は女の子一人だけで、姉妹のような感じなんですよ。

 ともかく、あの最後に抱き合ってる姉妹の姿はいいです。

2008-07-08

 

やさしさとかおもいやりっていったい何なんだろう。

2008-06-29

ところで

 映画『風の谷のナウシカ』見たんですが、思ってたよりナウシカがだいぶちがくて、びっくりしました。
 私がある意味理想と思うナウシカは、映画のナウシカではありませんから!声を大にして言うよ、映画のあれは全然違うから!

 以上

2008-06-26

翻訳

 今日ふと自分のブログにつけた「翻訳」機能を使ってみたんですが、やはり固有名詞等々、へんちくりんな英語になっておりますね。はじめ付けてみたときは割にうまく英語に翻訳されるもんだなあと感心していたんですが。
 難しいなあと思ったのは人称。「仕事」の項目でかいたことが"I feel~"になっちゃってる。「彼女は感じているんですよ」という大事なところで。
 むーむー、難しいです。
 新潮が"あらたうしお"に訳されているのには笑いました。

2008-06-24

読了本

『津軽通信』太宰治
『カフカ寓話集』フランツ・カフカ

 また感想書きます。

 ついでに、非大學訳ランボー岩波から出てたんですね『地獄の季節』買いました。4月に改訂版が出たとこで、古いやつだと400円新しいのは460円(税抜き)
 迷ったけど新しい方買いました。
 ちなみに新潮のランボー詩集は読む気がおきなくて置いてあります。
 大學さんの訳は否定しませんよ。でも、私はもうちょっと翻訳調のほうが好きです。フランス語らしい表現とかが残ってて、注釈なんかついてたら嬉しいかな。
 大学さんはねえあまりにも日本語として完結し過ぎているんですよね。それが窮屈に感じたり。

2008-06-04

ドストエフスキー カラ兄弟

第五 大審問官

 今回は割に細かいところを見て、発見したこととかを書いていこうという意図なので、せっかくの大審問官ですが、さっさ~っと読み飛ばしてしまいました。
 ただそういうマクロ的に読むと(あれ?逆か。ミクロの視点?いややっぱ読み飛ばしたから分かったことです)そうか、老審問官が言っていることって要するに共産主義のことなんですね。そう考えるとやはりキリスト教というのはたいしたシステムだなあと思います。(私がいまだに社会主義と共産主義の違いが分からないというのは秘密です。笑)

 そんな私ですが共産主義国がことごとく崩壊し現実共産主義体制の中で何が起こったのかということぐらいは承知しておりますので(二頭の牛に教えてもらいました

この隷属は未来の農奴制度ともいうべきものですが、ただし地主となるのは彼ら自身です(P103)とアリョーシャも言っていることですし。

「でも、粘っこい若葉は?貴い墓は?瑠璃色の空は?愛する女は?ああ、それじゃ兄さんは何を足場にして生きてゆくのです、どうやってそういうものを愛するつもりなんです?」とアリョーシャは悲しげに叫んだ。「胸に頭にそんな地獄を抱きながら、一体そんなことが出来るんですか?(後略)」(P107)

 これは『謎ときカラマーゾフ』の中で江川さんもおっしゃっていることですが、大審問官の話が終わったあと、イワンは左へ、アリョーシャは右へ行き、立ち去るイワンの肩は右が下がっています。右は意識の象徴、左は無意識界の象徴です。←ところでこれって私は河合隼雄の本で知ったことなのですが(箱庭の解釈によく出てくる)、ドストさんの時代にもいわれていたことなんですかね。人の意識を無意識と意識に分けたのはフロイトで、ドストさんより100年ほど後の時代のことなのですが。

ドストエフスキー カラ兄弟

第三兄弟の接近

たとえ物の秩序を信じないとしても、僕にとっては、春芽を出したばかりの、粘っこい若葉が尊いのだ。瑠璃色の空が尊いのだ。(P43)

生の意義以上に生そのものを愛するんだね?(P44)

 この辺のイワンのせりふはしびれますね。江川卓さんは生の意義以上に生そのものを愛するイワンをして「カラマーゾフ万歳」と言えるのだと仰ってました。ほんとにその通りです。

僕は調和なぞほしくない、つまり、人間に対する愛のためにほしくないというのだ。(P73)

ねえアリョーシャ、僕は神様を承認しないのじゃない、ただ『調和』の入場券を謹んでお返しするだけだ(P73)

 そして劇詩『大審問官』にいくわけです。

第五 大審問官

怒りたいなら勝手に怒るがよい、わしはお前の愛なぞほしくもないわ。(P96)
 このせりふはイワンの「(子供の苦しみの上にしか得られないというのなら)調和なんか欲しくない」という言葉の言い直しだったんですね。最初にカラ兄弟を読んだとき、一番印象に残ったせりふでした。

2008-05-12

村上春樹 駄目になった王国 ほか短編色々

 短編の紹介をもうちょっとやりたいなあと考えてたんですけど、一念発起(おおげさ)して昨日書きました。もはや紹介ではない気がしますが。

春樹さん短編紹介第2弾

 中身がない項目が多いですが追々書きます。前ここに「一度書いたのに間違えて消してしまった」といっていたやつは「ハナレイ・ベイ」のやつです。

2008-05-03

なんか突然 アルチュール・ランボー

 の、詩集を読みたくなって、昨日はネットで自ら翻訳しつつ解説してるページをみつけたのでそれをじみじみ読んで、今日は本屋に行って新潮文庫『ランボー詩集』買ってきました。
 ランボーというと高校生の時図書室で読んで、(あれが読んだうちに入るのなら)ものすごーく気持よく眠くなったことしか覚えてませんが、『「居酒屋みどり」で』はなんとなく覚えてます。あくまでなんとなく。(もちろん『永遠』『谷間に眠る者』のぞく)
 高校のときは文庫でなくて割に雰囲気のいい本でした。出版社とかは忘れてしまいましたが。訳も堀口さんかどうか覚えてないです。欲をいえば今回は非大学訳で読みたかったなあ。

2008-04-17

カラ兄弟

 第四 叛逆
 ここでイワンは報われない子供の苦しみについて語るわけですが、ふと今回思ったのは、この子供というのはドストさん自身、特に「父の罪を贖わされる子」としての自分を書いたものなのかなあと。
 父が領地の人たちに殺されたという知らせを受けてから、ドストさんの一生の病、てんかん発作が始まったと言われています。当時フロイトくんに、典型的なエディプス・コンプレックスの発症例、みたいに言われたみたいですが、まあ確かに、父殺しの願望がかなった瞬間でもあり、それに対する強烈な自罰意識がてんかんをひき起こすと考えていいのでしょう。
 同時に、なぜ父は殺されなければならなかったのか、父自身に要因があったのだ、という思いももちろんあったろうし、父の死の知らせを受けて以来、自分が味わうことになる苦しみを、父の罪と重ねて見ることもあったろうなと思うんです。僕がこんなに苦しいのは、父の罪の代価を支払っているからなんだ、ドストさんはそんな風に思っていたのはないでしょうか。

で、もし子供までが同じように地上で恐ろしい苦しみを受けるとすれば、それはもちろん自分の父親の身代わりだ、智慧の実を食べた父親の代わりに罰しられるのだ――が、これはあの世の人の考え方であって、この地上に住む人間の心には不可解だ。(P58)

人間同志の間における罪悪の連帯関係は、僕も認める。しかし、子供との間に連帯関係があるとは思えない。もし子供も父のあらゆる悪行に対して、父と連帯の関係があるというのが真実ならば、この真理はあの世に属するもので、僕なんかにはわからない(P71)ともにイワンのせりふより

 そしてまた思ったのでしょうね、冗談じゃねえ、何で俺が父の代わりに苦しまなければならないんだって。その不条理は何なんだって。

2008-04-14

カラ兄弟

 気がついたらもう「プロエコントラ」の章に突入してました。

 ちょっと戻って 第六 小屋における『破裂』

 たまたまこのあいだ(といっても大分前)『アンジェラの灰』という映画を見ました。アイルランドにおける極貧生活をみっちりと描き出した映画で、話自体は私はあまり感心しなかったんですが、資料としては面白かったです。カラ兄弟とは時代が全然違いますがね。雰囲気的には似たとこがあるのではないでしょうか。
 映画のほうの話ですが、お金がなくて食べ物が買えないというのももちろん悲惨ですが、石炭が買えないというのも悲惨なんですね。アイルランドの気候は冬がじめじめしているので、火を焚いて空気を暖めかつ乾燥させないと、伝染病にかかる、そうすると子どもとか弱い存在は生き抜けない、という。その現実。

 さて、ここではロシアにおけるおそらく底辺クラスの暮らしぶりが書かれます。(ソフィヤ・マルメラードワの家には負けるでしょうが)村上春樹が「かえるくん、東京を救う」で、フョードル・ドストエフスキーは神に見捨てられた人々をこのうえなく優しく描き出しました。とかいていますが。まさしく神に見捨てられた人々。
 もう少しあとに、イワンの大審問官の序言の中に彼らの中でも、永劫浮きみ出ることが出来ないほどこの池(地獄の火の池)の底ふかく沈んでしまったものは、『神様にも忘れられる』こととなるのだが、実に深刻な力強い表現じゃないか。というふうに言われています。

 第五篇 Pro et Contra
 第一 誓い
 ねえ、アレクセイさん、あたし達の考えの中に、(略)あの不仕合せな人を見下げたようなところはないかしら……だって、あの人の心をまるで高い所から見おろすような工合にして、いろいろ解剖したじゃなくって?

 わかっているのは、僕もカラマーゾフだ、ということばかりです
 ところが、僕は神を信じてないかもしれないんですよ。

 突然イワンが嫌いだというリーザ。もう少し前では(カチェリーナが)イワンを愛してるというアリョーシャの言葉に「誰のこと、それは誰のことなの?」と過剰に反応してるし。

 第三 兄弟の接近
 「つまり、兄さんもやはりほかの二十四くらいの青年と同じような青年だ、ということなんです。(後略)」


 抜粋ばかりですみません。メモということで。

2008-04-02

カラ兄弟

 第四篇 破裂 第五 客間における『破裂』

 それから今一つの想念も、また突然おさえることのできない力をもって、彼の心へ闖入して来た。ほかでもない、『もしこの人が誰も愛していなかったら、どっちも愛していなかったらどうだろう?』というのであった。

 カチェリーナに対してアリョーシャの思うこと。これって最終的には予言的中なんだあ。

2008-04-01

カラ兄弟

 第八 コニヤクを傾けつつ

 このあたりから話が急展開して、たった4節の間にすんごいいろんなことが起こりますね。頑張って付いて行きます。

 スメルヂャコフにとって、グリゴーリー=フョードルなんですかね。さらに=神で、彼等の否定=神の否定であると。

 アリョーシャが母の憑かれた女(クリクーシカ)の話を聞いているうちに、母と同じ行動をとってヒステリーを起こすエピソードですが、私はこれの意味がよく分からないです。このあとすぐにミーチャが乱入してくるので、なんとなく中途半端に話が終わってしまうし、イワンは「しかし僕のお母さんは、つまりアリョーシャのお母さんだと思うんですが、あなたはどうお考えですか?」とか言い出すし。
 イワンとアリョーシャの母→ソフィヤ・イワーノヴナ(イワンの娘)(罪と罰の彼女はソフィヤ・セミョーノヴナ)
 ドミートリーの母→アデライーダ
 スメルヂャコフの母→リザヴェータ
 グリゴーリーはアデライーダを嫌っていたが、ソフィヤのことは主人と喧嘩してまでかばっていた。

 ついでに、作者の名前はフョードル・ミハイロヴィッチ・ドストエーフスキー。妻はアンナ・グリゴーリエヴナ(グリゴーリーの娘)

 では次にいきましょう。

2008-03-30

カラ兄弟

 第六 スメルヂャコフ
 しかしあるいは永年の間こういう印象を積み重ねたあげく、突然すべての物をなげうって、放浪の苦行のために、エルサレムをさして出て行くかも知れないが、また或いは不意に自分の生まれ故郷の村を、焼き払ってしまうかもしれない。ことによったら、両方とも一時に起こるかも図られぬ。

2008-03-24

カラ兄弟

 第三篇 第二 リザヴェータ・スメルヂャーシチャヤ
 一つ、この事件(知的障害の女性がレイプされ子どもができた)は父の持ち村チェルマシニャーで本当に起こったこと、らしいです。(ソースが出てこないのですが見つけ次第書きます)
 一つ、前に子どもは無垢だとか、知的障害の人は純粋だという見方が、まだ世間では横行している、と書きましたが、ドストさんのスタンスは(暗にしか書かれてないことですが)子ども、あるいは子どものような大人としての知的障害者を、性的な対象として見る、というものです。これは倫理の面から考えても、(文学に倫理を持ち込むのは私は違うと思うけど、その話は置いといて)簡単に良しとしてしまうわけにはいきませんが、少なくとも、事実から目を背けて、あるいはそれを疑ってみることもせず、単に子ども=純粋と信じきってしまっている人の考えより、私は承知しやすいと思っています。

 第三 熱烈なる心の懺悔――詩
 フョードルの隣の家に住んでいる母娘の娘のほうは、かつては高い身分の人のところで働いていて、今は貧乏になって、食べ物の無心をすることさえあるが、服だけは売らなかった、そのうちの一着には長い尻尾がついている、とのことですが、アリョーシャはこのうちの隣を抜けようとしているとき、その尻尾のことを思い出してふと顔を上げ、結果兄のミーチャに会うことになります。この、尻尾のことを思い出して、というのが今回妙に気になりました。なぜに尻尾? (多分性的な意味よな) (いや違う、尻尾→悪魔だ)

美の中では両方の岸が一つに出合って、すべての矛盾が一しょに住んでいるのだ。

2008-03-12

宮崎駿 もののけ姫

 宮崎映画の中で1番好きなのはと考えると『もののけ姫』かなと思います。私の周りでは評判悪いんですけど。
 良くないという人は宮崎駿は『(漫画)風の谷のナウシカ』で終わってるんだから、いつまでも映画作ったりしないで早く引退すればー?という意見で、それはなんとなく分かる気もします。笑。
 が、その人は「エボシなんてまんまクシャナじゃないか」というようなことを言っていましたが、ちょっと違うんじゃないかと今回見ててふと思いました。エボシはクシャナというよりナウシカの暗黒面、夜叉の部分を強調した人なのかなと。クシャナは傷付いた鳥ではあるけれど決して優しくはない。(これ間違いだったな。「竜はみんな優しいよ、優しくて愚かだ」by湯婆々というセリフをあわせて考えると、クシャナって傷ついて飛べない優しくて愚かなドラゴンですよね。『ナウシカ』4巻を見てそう思いました。ちょっとそれるからこちら)エボシがライ者の「腐った肉を洗い布をまいて」あげた姿というのはナウシカの持つ慈悲の心を思い出します。まあクシャナがそもそもナウシカの別バージョンなんで当たり前かもしれませんが。

 『ナウシカ』から『もののけ』への移行で、面白いなと思ったのはセルム=サンの入れ換えです。二人は同じ「森の人」であるのに男女が入れ替わっただけであんなに違う性質をもつのか、と。ナウシカの性質はアシタカに引き継がれているのにね。逆にいうとセルムの持つ悲しみとか怒りって漫画ではかかれていませんが、森の人は蟲使いの末裔で、蟲使いは賤民といわれる地位にあるというのは、その辺のほのめかしなのかもしれませんね。

 もののけで1番好きなシーンはライ者のオサが「生きることはまことに辛い、だが生きたい、どうか愚かなわしに免じて....」というところです。あのシーンは何度も見た。そして何度見ても泣きます。(もののけ姫ってもう10回以上繰り返して見てるなあ)

 でも次点はアシタカがサンを抱きしめて、「すまない、なんとか止めようとしたんだ」というところ。美しいシーンです。どうしたって癒されない怒りも悲しみも、全て抱きしめて生きていこうというアシタカ君に惚れます。

 エボシがアシタカに「さかしらにわずかな不運をみせびらかすな、その右腕切り落としてやろう!」というセリフもいいです。エボシ様は「売られた娘をみるとみんな引きとってしまう」と言われているように、虐げられた人たちに対する情が半端なくありますね。エボシの服装から見て彼女の出時はおそらく白拍子(遊女)であろうといったのは網野善彦氏。エボシという人は人生の苦汁をなめてなめてなめつくして、あそこまでたどりついた人なのでしょうね。アシタカの呪われた腕など鼻で笑うくらいに。

 アシタカがカヤから貰った小刀をサンにあげちゃうのが、ちょっと引っ掛かっていたんですが、二人の声優さんが実は同じ人であることを知り、納得しました。カヤをいつも思うことと、サンと共に生きることは、少なくとも物語上はつじつまがあうんだと分かって、ほっとしました。

 男女の入れ換えといえば、母であるモロの声を美輪さんがし、主人公の気持ちを歌った歌を米良さん(この人はバイセクシャルなんだそうですね)が歌っているというのも意図的なものかもしれません。
 あと、姫と呼ばれる高い位にいる女(サンとエボシ(エボシは姫ではないが))が、実は「あわれで醜い」女であったり、遊女であったり、そのへんの転換も面白いです。またこの時代遊女の地位は決して低くはなかったはずです。まあ娘たちが売り買いされているわけだから、それなりにさげすまれた身分なのでしょうが、一国の主にはなれないこともない、そんな感じでしょうか。
 『もののけ』の舞台がこの時代(平安末期~鎌倉ごろ)であるのは確信的です。聖穢、生死、穢と汚、聖と性などなど、価値の根本的転換が起こった時期(つまりは神殺しのあった時期)ですから。

2008-03-10

太宰治 きりぎりす

「燈籠」
 小学生だった私がこの小説を読めたのはひとえに漢字が少なく平明な女性の一人称語りだったから、だろーなあ。

「黄金風景」
 私は太宰は『津軽』が一番好きなんです。黄金風景はそのひながたです。

「畜犬談」
 笑っちゃいますよね。犬ごときにすんごい言い回し使って、見たこともないむつかしい語句使って。でもだんだん読んでいくうちにあたたかい気持ちになります。私の中では太宰といえば津軽か畜犬談、なくらい好きな作品です。すごいいい人ですよねえ。

「風の便り」
 もし太宰が自殺しなければ(という仮定は意味をなさないような気もしますが)井原のような作家になっていたはずですよね。そんな太宰を私は見たかったな。
 「トカトントン」のロングバージョンとも考えられ、トカトントンであれほど愚かで奢った人物としてしかかかれていなかった、答える者が、ここまで掘り下げられたということに、素直に太宰という人の豊かさ深さを感じます。

2008-03-02

マイケル・ギルモア 心臓を貫かれて

「俺はおまえを殺しに行ったんだと思う。たぶんそうなったことだろう。おまえにも選びようはなかっただろうし、俺のほうにも選びようはなかっただろう」。

カラ兄弟

 無事『心臓を貫かれて』を読み終えたので、戻ってきました。
 ものすごくジャストタイミングに第二篇第五アーメン、アーメンです。ゾシマ長老の言うに「すべて、今のように流刑に処して懲役につかせる(以前はそれに笞刑まで加わっていたのじゃが)、そういうやり方は決して何人を匡正することは出来ませんじゃ
 これってゲイリー・ギルモアにまんま当てはまる言葉ですね。
 信仰とか教会とかを狭義に考えると、私キリスト教信じてないしで話が終ってしまうわけですが、ドストさんがここで言っている"社会全体が教会になるべきだ"とか"教会が与える罰こそが真に人間を正すものだ"とかいうときの教会は宗教を越えて、一つの人間より高次の存在を表しているのかと思います。それは不死であって、アリョーシャがそのために生きると誓ったものであって、すごく広い意味での愛です。たぶん父なるものと呼ばれるものです。
 しかしゲイリー・ギルモアの最期の言葉が「いつもそこには父親なるものがいる」であることを考えると、彼を許すのも父なるものであるなら、罰するのも父であるのですね。(だからこそ「父殺し」の主題がでてくるわけかあ)
 信仰を失うことが父親からの許しを失うことを意味すると考えると、100年以上も昔に書かれたこの小説が正確にゲイリー・ギルモアの事件を予言していたのだな、と、背筋の寒くなるような、100年以上たった今もアーメン、アーメンの祈りは届かないのだなと、むなしくなるような、そんな気持ちです。
 ゲイリーは頭がよくて、詩的に生きる人だから、カラマーゾフの兄弟は読んでいたかもしれませんね。ゾシマがイワンに向かっていう、その問題は解決されることはない、それがあなたの苦しみです、けれど、そのような高邁な心を授けられたことに感謝なさい、そしてその問題があなたの生きているうちに解決されますように、という言葉にイワンが殊勝に応えるさまが胸にひびきます。

2008-02-17

マイケル・ギルモア 心臓を貫かれて

 休みの間に『そうだ、村上さんに聞いてみよう』を読んでいて、ふと読みたくなったので、ただいま『心臓を貫かれて』を再読中です。今から下巻。

 ゲイリーという人にはあまりにまとも過ぎる部分があったんだろうなと思います。随所に書かれているゲイリーの「シャイな微笑み」というのを見ていると。
 私もそういう人を何人か知っています。彼らは今どうしているんだろうと考えるととても切なくなります。

2008-02-09

珍しく読書日記らしい

 本屋で川上未映子さんの『わたくし率イン歯ー、または世界』を立ち読みしました。
 蹴りたい背中で本屋なのに本を投げそうになり、介護入門に至っては一行も読むことができず(貸してくれた人に読まずに返した)、それ以降の芥川賞受賞者を知らない私にしては珍しく、けっこう読みました。(といってもぱらぱらですが)で、おおおと思ったです。
 氏は京都出身かと思ったのですが大阪なんですね。ちょっと京都弁入ってると思ったのですが。
 この作品を知ったのは芥川賞うんぬんということではなく、雑誌TVBrosの書評欄で、なかなか面白そうだなと興味を持ったからでした。普段は本屋にいっても新刊コーナーなんてまず行かない。(じゃあどこに行くかというと海外文庫あたりをぼおおおおおっとしています。ドストエフスキー新刊出ねえなあと思いつつ。うそ。笑い)

2008-02-01

仕事のこと

 このブログを読み返してみたのですが、自分の仕事のことを予想外にたくさん書いているくせに、基本的に私が何の仕事をしているのかについては全く書いてないことに気付きました。笑。
 のでちょっとだけ書きます。
 私の仕事は大きく分けて2つあります。1つは、えっと、これはまだ秘密。(障害者関係であることは間違いないです)1つは「ガイドヘルプ」です。資格的なことをいうと私が持っているのは「知的障害者移動介護」のみです。だから車椅子ガイドは実はできません。しかし、車椅子の方のうち、「重度障害者等ほう括支援事業」の対象者の方はヘルパーは無資格でもいいというよく分からない規定があり(ただしマネジメントをする人は要社会福祉士プラス実務経験)私も行くことができます。もうちょっというと、知的障害者移動介護の資格プラス経験2年以上あるとできる「行動援護」もできます。利用する方がいないだけです。

 ガイドの制度そのものが障害者自立支援法ができたときにだいぶ変わって、私が資格を取ったときは支援費支給制度の下でした。ので名称等々ちょっと変わっていますが、細かいことはいいでしょう。
 (おおう、とあるキーワードで検索かけたらうちの職場の人が書いた文書が出てきた。危ない)

 ともかく障害を持っているかたの外出に付き添って、一緒にお出かけする仕事です。土日祝、平日の夜に入ることが多く(当たり前)完全シフト制です。

2008-01-24

太宰治

 太宰ごときにこんな心動かされると思ってなかったなあ。だって王道じゃないですか。本読み人としては失格じゃないですか。笑。

 呆然としてしまいました。「そうして私は沈黙する」。サイトの題名にでも使いたくなる言葉です。その断絶の深さに、2人の間に厳然とある溝に、それは決して埋めることはできないという事実に目まいがしました。私にはあなたの流す鮮血が見えるようだ。

 そんなわけで今『きりぎりす』を読んでいます。「畜犬談」が好き。その樫の木に黄金の細き鎖のむすばれて(黄金風景)、とかひそひそ聞こえる。なんだか聞こえる(鷗)とか懐かしい。

 本屋で新潮文庫の『走れメロス』を見てみると、どうやらこれも既読のようです。意外にたくさん読んでる太宰治です。
 太宰は姉が愛している作家です。(姉の夢は桜桃忌に参加することと太宰の生家を訪ねること←こちらは2年くらい前に実現させたようです)姉は小6の時はまりだしました。ので、3つ下の私も小学生時代太宰を読んでいるはずです。正確には覚えていないのですが姉にすすめられて『お伽草子』か『きりぎりす』あたりを読んでいる。短編集なのでどれか読めそうなものを。「おしゃれ童子」が好きだったのを思い出しました。

2008-01-16

そうして私は沈黙する

 生きるという事は、たいへんな事だ。あちこちから鎖がからまっていて、少しでも動くと、血が噴き出す。
太宰治 「桜桃」『ヴィヨンの妻』新潮文庫

2008-01-14

太宰治

 「おさん」まで読み進んで、あ、ここかもしれない、と思った。前、苦しくて読むのをやめてしまったところ。笑。

2008-01-07

ドストエフスキー カラマーゾフの兄弟

 リアルタイムでお送りしています。ただ今第二篇、ゾシマ長老が信心深い女たちに祝福を授けているところです。
 前々から思っていたのですが、ここに出てくる幼い息子を亡くした母親の姿はとてもリアルですよね。

わたくしはほんの一遍きりでも、あれが見とうござります。ほんの一遍あれが見たいのでござります。そばへ寄って声をかけいでもかまいませぬ。以前のように、あれがおもてで遊び疲れて帰って来て、あの可愛い声で、『母ちゃん、どこ?』と呼ぶところを、どこか隅の方に隠れておって、せめてちらりとでも見たり聞いたりしとうござります。
(ドストエフスキー著、米川正夫訳『カラマーゾフの兄弟』岩波文庫)

 子どもの名前はなかなか出てきません。最後にゾシマが名前は?と聞いて、初めてこの子の名がアレクセイであることが分かります。アレクセイとは、カラ兄弟の主役の名前であり、その他少なくない数の(いや少ないか)ドスト作の中で主役に冠せられる名前であり、ドスト氏が亡くした次男の名前でもあります。どちらのアレクセイも3つの時に亡くなりました。

メモ

 『ヴィヨンの妻』って高校生のとき読んだのですが、何か読んでいて非常に苦しくなって、途中で読むのをやめたままになっていた本です。今回表題作まで読み進みましたが、前どこで苦しくなったのかよく分からなかったです。笑。「トカトントン」いいなと思っていたら、太宰が好きな姉も「お、ヴィヨンの妻、トカトントンやね」と言っていました。あの地の文うつりそう。次は『カンガルーノート』と思っていましたが、『津軽通信』を先に読みます。