2008-09-26

阪本順治 闇の子供たち(映画)2

(続き 引き続き反転)

 映画を実際に見るまでは可哀想で悲惨な子どもたちの現状に涙するやろうなと思ってた。でもいざ映画を見ると意外に自分が泣いたんは、南部という男の人の葛藤に触れた時やった。買ったパンフレットによると、可哀想な子どもたちにクローズアップしてしまうと、結局ペドフィリアの人を喜ばせてしまうものになる、だからそれだけは避けて欲しいというどっかの大学教授の進言があったとのことやった。
 映画のラスト、鏡の周りに一面に貼られたペドファイル達の記事、そしてその真ん中の鏡に、与田と清水の顔が写っている。お前は本当に加害側にならないといえるのか?いや、お前はすでにその側の人間ではないのか?自分とは関係ないものとしてしまえるのか?
 買春ツアーというものがが現実にあり、多くの日本人がアジアやその他の地域で子どもたちに虐待行為をしている。私はなんと言っていいのか分からなかった。今も分からない。


 お前は加害側にならないと本当にいえるのか?これは辛い問掛けやと思う。劇中白人女性が子どもを買っているシーンもある。確かにレイプの被害に合うのは女性のほうが圧倒的に多いし、この問題を考えるときいかに自分の身を守るのかということに目がいきがちやとは思う。
 しかし自分の心をえぐって考えると、可哀想な子どもを見ておきたい、その悲しみを抱きしめてやりたい、という動機は一見美しいものに見えるが、もちろん多分に利己的でもある。この傲慢な心はきっと誰かを、彼等を傷付けることになるやろう。
 劇中、宮崎あおい演ずる音羽という女性が、我が子に違法な移植手術を受けさせようとする夫婦に、タイの子どもの一人の命を犠牲にしていいと思っているのか、手術は中止して下さい、と懇願する。私はどーもこの音羽という女の子が気に入らなくて、終始感情移入できなかった。大学で福祉を学んだそうだが、福祉を学んだ人間なら、福祉で人を救えない現状を腹の底から分かっていなくてはならない。大学で何を学んだんだよと言いたい気分だった。この時、夫婦の母親のほうが、なら私の息子を見て下さい、と言う。寝たきりで管に繋がれたまだ幼い息子を見てくれと。しかし画面にはこの子どもは写らない。私はそれをしっかり見せるべきやったと思う。
 綺麗事なら誰にだって言えるのだ。しかし消えゆく命を前に、我が子が助かる道があるのに、それを手放す勇気は誰でも持っているものではない。
 監督の言によれば、音羽という人物は、僕のように(阪本さん自身)自分のことしか考えられない人間にとって、一種の憧れのようなもの、とおっしゃられていて、男の理想の女というのはなぜこうもうざいんやろうと少し苦笑してました。
 まあその話は置いといて。
 私自身のことを言えば幼児に対する愛着のようなものは人より多く持っていると思う。それが一般的に言う母性愛のなせるものとは少し違うというのも自覚している。やはりどこか、これは自分なんだという思いがある。好奇心もあると思う。(2歳の男児がソドミイされ喉から腹にかけて切り裂かれ、挙句井戸に放り込まれ発見されたその遺体を見たいという思いが、純粋に善なる心から出たものであるとは、よう言いきらん)
 私は死体の写真を見るのにあまり躊躇しない。それは死を実体化するための行為であり、自分自身の死と距離をおくための儀式だ。私もいつか、このようにして死ぬのかもしれない。代替行為であり、死というわけの分からないものを少しでも自分の中に固着させるための、私が考えた一つの方法だ。しかしいくらいい訳をしても、拭えない疑問も残る。自分の異常性に目を向けずにはいられない。


最近よく聞く曲→GO!GO!7188『映画と雨降りの朝』