2008-03-12

宮崎駿 もののけ姫

 宮崎映画の中で1番好きなのはと考えると『もののけ姫』かなと思います。私の周りでは評判悪いんですけど。
 良くないという人は宮崎駿は『(漫画)風の谷のナウシカ』で終わってるんだから、いつまでも映画作ったりしないで早く引退すればー?という意見で、それはなんとなく分かる気もします。笑。
 が、その人は「エボシなんてまんまクシャナじゃないか」というようなことを言っていましたが、ちょっと違うんじゃないかと今回見ててふと思いました。エボシはクシャナというよりナウシカの暗黒面、夜叉の部分を強調した人なのかなと。クシャナは傷付いた鳥ではあるけれど決して優しくはない。(これ間違いだったな。「竜はみんな優しいよ、優しくて愚かだ」by湯婆々というセリフをあわせて考えると、クシャナって傷ついて飛べない優しくて愚かなドラゴンですよね。『ナウシカ』4巻を見てそう思いました。ちょっとそれるからこちら)エボシがライ者の「腐った肉を洗い布をまいて」あげた姿というのはナウシカの持つ慈悲の心を思い出します。まあクシャナがそもそもナウシカの別バージョンなんで当たり前かもしれませんが。

 『ナウシカ』から『もののけ』への移行で、面白いなと思ったのはセルム=サンの入れ換えです。二人は同じ「森の人」であるのに男女が入れ替わっただけであんなに違う性質をもつのか、と。ナウシカの性質はアシタカに引き継がれているのにね。逆にいうとセルムの持つ悲しみとか怒りって漫画ではかかれていませんが、森の人は蟲使いの末裔で、蟲使いは賤民といわれる地位にあるというのは、その辺のほのめかしなのかもしれませんね。

 もののけで1番好きなシーンはライ者のオサが「生きることはまことに辛い、だが生きたい、どうか愚かなわしに免じて....」というところです。あのシーンは何度も見た。そして何度見ても泣きます。(もののけ姫ってもう10回以上繰り返して見てるなあ)

 でも次点はアシタカがサンを抱きしめて、「すまない、なんとか止めようとしたんだ」というところ。美しいシーンです。どうしたって癒されない怒りも悲しみも、全て抱きしめて生きていこうというアシタカ君に惚れます。

 エボシがアシタカに「さかしらにわずかな不運をみせびらかすな、その右腕切り落としてやろう!」というセリフもいいです。エボシ様は「売られた娘をみるとみんな引きとってしまう」と言われているように、虐げられた人たちに対する情が半端なくありますね。エボシの服装から見て彼女の出時はおそらく白拍子(遊女)であろうといったのは網野善彦氏。エボシという人は人生の苦汁をなめてなめてなめつくして、あそこまでたどりついた人なのでしょうね。アシタカの呪われた腕など鼻で笑うくらいに。

 アシタカがカヤから貰った小刀をサンにあげちゃうのが、ちょっと引っ掛かっていたんですが、二人の声優さんが実は同じ人であることを知り、納得しました。カヤをいつも思うことと、サンと共に生きることは、少なくとも物語上はつじつまがあうんだと分かって、ほっとしました。

 男女の入れ換えといえば、母であるモロの声を美輪さんがし、主人公の気持ちを歌った歌を米良さん(この人はバイセクシャルなんだそうですね)が歌っているというのも意図的なものかもしれません。
 あと、姫と呼ばれる高い位にいる女(サンとエボシ(エボシは姫ではないが))が、実は「あわれで醜い」女であったり、遊女であったり、そのへんの転換も面白いです。またこの時代遊女の地位は決して低くはなかったはずです。まあ娘たちが売り買いされているわけだから、それなりにさげすまれた身分なのでしょうが、一国の主にはなれないこともない、そんな感じでしょうか。
 『もののけ』の舞台がこの時代(平安末期~鎌倉ごろ)であるのは確信的です。聖穢、生死、穢と汚、聖と性などなど、価値の根本的転換が起こった時期(つまりは神殺しのあった時期)ですから。