2008-03-02

カラ兄弟

 無事『心臓を貫かれて』を読み終えたので、戻ってきました。
 ものすごくジャストタイミングに第二篇第五アーメン、アーメンです。ゾシマ長老の言うに「すべて、今のように流刑に処して懲役につかせる(以前はそれに笞刑まで加わっていたのじゃが)、そういうやり方は決して何人を匡正することは出来ませんじゃ
 これってゲイリー・ギルモアにまんま当てはまる言葉ですね。
 信仰とか教会とかを狭義に考えると、私キリスト教信じてないしで話が終ってしまうわけですが、ドストさんがここで言っている"社会全体が教会になるべきだ"とか"教会が与える罰こそが真に人間を正すものだ"とかいうときの教会は宗教を越えて、一つの人間より高次の存在を表しているのかと思います。それは不死であって、アリョーシャがそのために生きると誓ったものであって、すごく広い意味での愛です。たぶん父なるものと呼ばれるものです。
 しかしゲイリー・ギルモアの最期の言葉が「いつもそこには父親なるものがいる」であることを考えると、彼を許すのも父なるものであるなら、罰するのも父であるのですね。(だからこそ「父殺し」の主題がでてくるわけかあ)
 信仰を失うことが父親からの許しを失うことを意味すると考えると、100年以上も昔に書かれたこの小説が正確にゲイリー・ギルモアの事件を予言していたのだな、と、背筋の寒くなるような、100年以上たった今もアーメン、アーメンの祈りは届かないのだなと、むなしくなるような、そんな気持ちです。
 ゲイリーは頭がよくて、詩的に生きる人だから、カラマーゾフの兄弟は読んでいたかもしれませんね。ゾシマがイワンに向かっていう、その問題は解決されることはない、それがあなたの苦しみです、けれど、そのような高邁な心を授けられたことに感謝なさい、そしてその問題があなたの生きているうちに解決されますように、という言葉にイワンが殊勝に応えるさまが胸にひびきます。