2009-06-10

宮崎駿 風の谷のナウシカ 四巻

 クシャナのお兄ちゃんの、「頭のいい女は嫌い」というセリフを見たくて4巻を読み返していたのですが、クシャナって優しい人間だったんですね。憎み続けていた敵が目の前で死んだとき、彼女は確かにその死を悼み哀れんでいたのですよね。やっと気づきました。
 このときのクシャナの顔はこれまでと全然違った顔つきで、幼く優しげな顔をしています。彼女は優しくて愚か(無垢って意味で愚か)な、ナウシカや王蟲のような人なんですね、確かに。

 私はずっと「賢くならなきゃいけない」と思って生きてきましたが、(そしてやはり愚かであるということが、どれほどの悲劇を生んできたか、それは考えなければならないことだと思うので(栃木の彼らは無限に愚かです。愚かであるということはやはり罪だと思う)だからこそ「賢くあらねばならない」と思うのですが)本当に大切なのは愚かであっても優しくあることなのかもしれません。
 優しくても愚かだと結局音吉のように「ビルマで人には言えんようなことをやりましたなァし」ということにもなりかねないので、やはり賢くなければいけないとも思うんですがね。

 私はもう無垢には戻れない人間ですから、(認識の木の実を食べた人間は二度とエデンに戻ることはできない、無垢と経験の歌だ)今更愚かになることは許されていないのかもしれませんね。

 いかんなあ、何でこんな暗い事ばっかり考えているんだろう。でも書いておいた方がいいような気がするので書きます。
 1.耐えることはそんな難しいことじゃない
 それが死にいたるほどの苦痛であるのなら耐えられなければそれは死んじゃうということだし、生きているということは耐えたということになるから。神になるのはそんな難しいことじゃない。耐えて生きればキリストになれるし、死んだら仏にもなれるよ。耐えられるか耐えられないかということに、意志とか意志の強さとか、そういうことは関係ない、こちら側に選択肢は多分ないから、選ぶことでもない。
 2.べきという言葉が嫌いな人がいたなあ
 まあここにもよく書いてた職場の上司なんですが。「するべきとかあるべきとかそんな風に決め付けないほうがいい」とよく言われた。でも私はずっとべきの世界で生きてきたから、今さらそれは変えられないなあ。
 3.結果的に使い殺されたことについて
 前の職場で、結果的には私という人間は負けてしまって、潰れてしまった。そのことに関して個人的に哀悼してくれてる人もいた。(とても意外な人物だった)「あなたは決して考えない人じゃないから今回のことも考えた末に出した結論だろうから、間違ってはいないと思う」と言ってくれた人がいて、そういってくれる人が一人でもいれば、これから先もやっていけるかもしれない。かもしれない。


 バランスが悪いので日記に最近作った料理のことを書くこと。

 表題と関係ないことを長々とすみません。でもついでだから。
 無垢であることと賢くあることは両立できることなのかもしれない。愚か=無垢だとして。ナウシカもオームも無垢だけど賢いから。でも賢しらではないよね。
 無垢だということは経験していないということ、もしくは経験していても染まっていないということ。だから経験しても染まらなければ無垢でいられるのかも知れない。無情と有情の歌。