ランボオ 地獄の季節
「死を手に入れる事だ、お前の欲念、利己心、七大罪のすべてを抱えて」
ああ、そんなものは、もう抱えきれぬほど抱え込んでいるよ、
(『地獄の季節』岩波文庫2008年P8序文より)
悪胤
これがフランス人の生活というものなのか、ああ、名誉への道とは。
(P20)
ランボーは一人称"俺"のほうがしっくりくるような気がします。"僕"はちょっと違う。なんでかなーと考えてみると、多分ランボーがまだ10代の少年でありながらすでに爛熟してしまっているから、多分それは彼がフランス人だから、なんだなあとこれ↑を読んで思いました。
錯乱Ⅰ 狂気の処女 地獄の夫
夫を"つま"と読み妾が"わたし"で、夫を"あれ"(以下斜体は傍点)と呼び『女なんか愛していない』と叫ばせ、妾は優しい手に抱かれながらあれの中へと入っていき、あれは働こうとはせず、妾はただ旅のままに生きたいと願い、しかし決してあれの悲しみは妾には理解できず、根性曲がりの馬鹿男は女を殺す、『この男がこの女を殺しちまったように、お前は俺を殺しちまうだろうよ。』そうしてあれはまた母のようであり姉のようであり、全くの子供であり、何より『悪魔』である、人間ではありません。
詩の感想って苦手だ。
一応「訳者後記」にこの「地獄の季節」はヴェルレーヌと二人放浪生活をしている時に書かれた、とあります。(そしてヴェルレーヌがランボーを撃つ事件もこの時期にあったそうです)というわけで自然とこの地獄にいった夫と道連れの妾の「おかしな夫婦」をランボーとヴェルレーヌにあてはめて読んでしまうわけですが、このようにどちらがランボーというわけでも、ヴェルレーヌというわけでもなく、どちらが男でどちらが女というわけでもなく、そのどちらにも身をひるがえしながら、どうしてこの人はあんなにこの世からさまよい出ようとするのかと考えながら、妾は眠っているあれの愛しい身体の傍らで、幾度となく長い眠られぬ夜を過しました。(この時のあれはどちらかというとランボーのような気がする)なんていっていたり。純愛だな。
私この詩すごく好きです。なんで新潮版には「錯乱Ⅰ」が入っていないんだろう...。
言葉の錬金術
格好良いですね。聞き給え。この物語も数々の俺の狂気の一つなのだ。云々。
野菜のサラダや果物の
もがれるばかりでいるものを、
垣根の蜘蛛めの食うものは
ただ、紫の菫草。
ああ、眠りたい、煮られたい、
ソロモン王の祭壇で。
スープは錆の上を駆け、
セドロンの流れに注ぐのだ。
このあたり暗唱しました。
不可能
――だが、あの科学の宣言以来、キリスト教が、人間が、わかりきった事をお互に証明しては、ふざけ合い、証明をくり返しては悦に入り、およそ外に生きる術がなかったというところにこそ、まことの罰があるのじゃないか。(P52)
だそうで、うん、キリスト教の罪をばっさり。いや、仏教も同じようなところあるからな。
俺の精神よ、気をつけろ。過激な救いにくみするな、鍛練を積む事だ。――ああ、科学は俺たちの目にはまだるっこい。(P53)
ううむ、書き出しているときりないですね。
