2008-10-29

スコット・フィッツジェラルド グレイト・ギャツビー

 村上訳で読み野崎訳でも読んだのに、感想を書かなかったのは、やはり「うーん...どこが面白いのか分からない」から、だったんですが、なんとなくぼんやり考えて、なぜ自分がこの物語をあまり理解できないのか、逆に村上春樹はなぜこの物語を生涯の一冊に選ぶのか、少し分かったような気がするのでそれを書こうと思います。
(だから正確にはグレイト・ギャツビーの感想じゃないんだけどね)
 村上さんは"失った"ということをいつも主題に持ってくる人です。それは言い換えると、"自分は(ものすごく大切な何かを)失った人間である"ということを認めている、ということであると思います。そして私がその手の喪失感に対して、ある程度は共感もするし、理解できるんだけど、あまり人生の一大事と考えないのは、私が失われた自分を認めていないから、なのではないかと思うのです。
 私は人生とは絶え間なく失い続けるものだし、一度失ったものは二度と手にすることはできないし、人間最後は必ず死ぬわけだから、例えもし何かを手にいれたとしても、獲得したものは最後には手放さなければならない、そういうものだと考えています。しかし喪失感というものは抱えるのが難しい感情だと思うんですね。自分は大切なものを失った、今の自分は完全じゃない、失われた者としての自分に果たして価値はあるのか?そう考えながら日々生きていくというのは、とても辛いことです。
 だからこそ私は、喪失を"なかったもの"として扱います。私はこれまで大切な物なんて、一つも手にしたことはない、手にしたことのないものを失うのは不可能です。
 それはずるい逃げ口上です。私は生まれた時既に手にしていたし、失ったのも事実だからです。けれどどうしても私は失った私を認められないでいます。

 『グレイト・ギャツビー』は、主人公であるジェイ・ギャッツが一時手にし失ったものを取り返そうとする物語です。作者はおそらく私と同じように、一度失ったものはもう二度と手にすることはできない、という考えを持っているのだと思います。ギャツビーは最後、彼の人生には無関係といっていいような人に殺されます。彼が
手にしたいと願ったものは彼の手をすり抜け、その手に残らなかったうえに、彼は無情にも殺されその人生を終えます。しかしこの物語が村上さんに与える印象はそこの部分ではありません。彼が喪失しながらも、必死で手を伸ばし、再び手に入れようともがく、その姿にこそ価値を見い出し、あさましくもなりかねないその姿を肯定し、暖かく美しく描き出している、そこにあるのだと思います。
 村上さんはこの物語を読んで自分は肯定され保証されていると感じるのではないでしょうか。
 先にも書きましたように、私は自分が失われている存在であることを受け入れることができません。いつか私も「グレイト・ギャツビーおもろい」と思える日がくるのでしょうか。春樹さんは自分にとって"喪失"のテーマは一旦解消されたものだと言っていたように思います。確かに初期作と最近の話は全く雰囲気違いますし、『ねじまき』で取り戻す物語を書いていますしね。不思議なことに、(あるいはごく自然なことに)村上さんの初期作は私は割りと苦手です。『風の歌を聞け』なんて2回しか読んだことないです。