2009-08-15

村上春樹 1Q84  -3

 まだまだ考えております。(本はお姉ちゃんに貸してしまったので手元にないです)

 つばさちゃんについて色々書きましたが、書いた後に思ったのは、今更村上作品における女性の扱いの酷さについて云々言ったって意味ないよなあという苦笑でした。『ノルウェイの森』を読んだ友人が、「女を何だと思っているんだ、自己表現のためのキャラクターでしかないじゃないか、直子に共感するなんて馬鹿みたいな感想だ、あれは村上本人の姿であって一つのキャラクターにすらなっていない」というようなことをいいました。それに対して私は、「そんな風に考えるんならあなたには村上は合わないということなんじゃないかな」と答えました。私は春樹さんが好きだから、春樹さんがナルシスティックに書いている小説が好きだから、そのナルシストぶりが気になるんだったらもうそれは村上小説は読めないということだよね、と素直に思います。(別に全人類が春樹作品に共感する必要はないし、それでいいと思う)
 というわけで益体もない事書いたなあと。笑い。

 私が天吾の言葉にがーんときたのは、私はずっと逆だと思っていたし、そういわれていろんなものをあきらめたからです。「あなたは自分を愛していない、自分を愛せない人間に他人を愛することはできない」こうだと思っていました。人からもこういわれました。
 だから逆の、「他人を愛せないから自分を愛することができないんだ」と言われたことは本当にショックでした。そうだったんだ、逆だったんだ、逆の発想があったんだ。

 このことについてある人とお話したのですが、「自分を愛せない人間は他人を愛することはできない」という言い方はよく聞くものだし、筋が通っていて説得力がある、でも、その人は、きれいに筋の通った強固な物言いというのは信じてはいけないというような気が最近している、と言われました。僕は確かに自分を愛してはいないけれど、自分の子どもにきちんとした愛情を持って接している人を実際に見て知っている、自分が見て知っていることと、一見きれいで確かな説得力のある言葉だったら、自分で見て知っていることを信じていいのじゃないか、そう言われました。

2009-07-25

村上春樹 1Q84 -2

 よーく見るとichi-kew-hachi-yonなんですね。kyuじゃないんだ。

 今2循目を読んでいます。(カフカやアフターダークの時は読み終わったらすぐ2回目に入ったんですが、今回は時間がかかった)
 環が青豆に出した最後の手紙に戦慄。
 日々の生活は地獄です。(中略)私は進んでそこに入り、自分で鍵を閉めて、その鍵を遠くに投げ捨ててしまったのです。(中略)私の感じるあらゆる痛みは、私が受けるに相応しいものです。(後略)
村上春樹 『1Q84 BOOK1』 株式会社新潮社 p300

 前は漠然と「どん詰まり感」があると書いたのですが、多分『ねじまき~』の2巻までを読んで多くの人が感じたように(私は読んでいる途中で3巻がでたので、特に何も思わなかったのだけど)この続きが書かれなければいけない、ということなんだと思います。1Q84に関しても、続きをと言っている人は実際多いようです。
 その内容は多分、天吾が青豆を取り戻す話ではないと思います。それはもうねじまきでやったから。じゃあ何かというと、深田保、ふかえりの父が、なぜどのようにして、あのような存在になってしまったのか、ということではないかと思います。
 恥ずかしながら、つい最近になって、春樹さんのエルサレム賞受賞の時のスピーチの全文を読みました。お父様が亡くなられていたことも初めて知りました。僕が父について言えることはこれだけです、と言われ、仰られていたこと、スピーチの中で、壁は私たちを傷付けるものであり、同時に誰か他人を傷付けさせるものだと言明されていること、(爆弾を使う者もまた卵であるのだということ)『アフターダーク』や『カフカ』『東京奇譚集』の中で、他者を損ない失わせる側の物語を書かれていること、等を考えると、そしてbook2を読み終えて物足りないと私や多くの人が思ったことを考えると、そういうことになるのではないでしょうか。

 こんなことを言う資格は私にはまったくないと思うし、なら言わないほうがいいんじゃないかなあとも思いますが、一度目に読んで、そして二度目に読んでもやっぱり思ったことは、「冗談じゃない」という怒りにも似た感情です。つばさという女の子が出てきて、彼女の傷と痛みと、それから彼女を保護する人たちの、悲しい過去の話が出てきます。娘と孫を理不尽な暴力で奪われ、酷く傷ついている老婦人、その話はリアリティを持って描かれ、つばさという女の子に対する老婦人の思いもまた、説得力のある心に迫った描写がされています。読んでいる私たちはまるで自分が傷つけられたかのようにその痛みを感じ悲しみを感じ、それでも癒しあい生きていこうとしている二人の幸福を祈らずにはおられません。
 なのにそれ、どういうこと?パシーヴァーとレシーヴァー?それは観念の姿であって実体ではない?彼女の痛みは観念的なもので実体は傷ついていない?
 そんな話で納得させられるようなことなら、最初っからつばさという女の子なんて、出すべきでなかったと思うのです。彼女の傷も痛みも誰にもあがなわれないまま物語の中に放ったらかし?個々の痛みに、悲しみに、寄り添うことが「卵の側につく」ということでしょう。「それは観念上の痛みだ」なんて解釈、それこそまさに「壁」の側の言い分ではないですか。あなたは卵の痛みを物語を語る上でのただの道具として扱うのですか?
 この言い分は全く深田保が一人で言っていることであって、青豆はそれに「私はあなたの言うことを信じない」といっているわけですから、村上さんだってやはり信じていないのではないかと思います。だからこそ次にもし書かれる物語があるのだとすれば、それは個々の代償、恩寵の代わりに差し出されたもの、の個別の痛みについて、ではないかと思うのです。
 村上さんのお父さんは、いったい誰に向かって祈っていたのでしょう、彼が息子に打ち明けられなかった、あの世まで持っていってしまった秘密とはいったいなんだったのでしょう、もちろん事実それが何であるのかということに興味があるわけではなく、息子である春樹さんがどう考えているのか、ということですが。(多分それについては多くの読者がこれまで書かれたものを読んで漠然と理解しているところでもあります)

 こういう作品の瑕をあげつらって好き勝手に罵倒するようなことって要するにシステム化された一元的な行為だし、要するに壁の側に立った行為だと思うから、普段から割りに好き勝手に発言しているけれど、なるべくやらないでおこうと思っております。

 ちょっと長くなりますが個人的にがーんと来たとこ

そしてなによりも、自分自身を愛することすらできない。なぜ自分自身を愛することができないのか?それは他者を愛することができないからです。人は誰かを愛することによって、そして誰かから愛されることによって、それらの行為を通して自分自身を愛する方法を知るのです。僕の言っていることはわかりますか?誰かを愛することのできないものに、自分を正しく愛することなんかできません。(BOOK2 P178)

 何でこんな大事なことがぼろっと頭から抜け落ちるのかよく分からないけど、無意識の防御反応だったのかもしれない。私、この言葉にもう少し早くあっていれば、仕事やめなくて済んだかもしれません。まあ遅かれ早かれ肉体的に仕事を続けることは無理にはなったろうと思うけれど、今回のように苛烈な状況でやめるはめにはならなかったかも。かも知れない。別に誰の責任にするつもりもないけど。

2009-07-01

村上春樹 1Q84

 読み終えました。
・『ねじまき鳥クロニクル』で投げ掛けられた疑問があらかた解明された、という印象をうけた。
・ぶっちゃけ青豆が見つかるのか見つからないのかどっちでもいいと思った。(求め続ける姿勢が大切なだけだから)
・アニマ=アニムスの話だと思った。だからふかえり=青豆=天吾。
・村上さんの小説では始めて、どん詰まり感を感じた。意外だった。

 そのほか個人的な雑感。
・私も3歳以前の記憶があるのですよ。ベビーカーに乗っていて、同じくベビーカーに乗っている男の子に話しかけられるんだけど私は眠いので困ったなあと思っている、後ろでは母親同士が立ち話をしている、というものです。ベビーカーって何歳くらいまで乗りますかね。私は歩くのは早かったようですが....
・空チェンバーの謎が解けた。笑い。
・天吾のお父さんの「説明しないと分からないということは、説明したって分からない」というのは、私のかなり幼い頃からの個人的信条と同じです。びっくりした。
・タームという言葉を使おうと思ったのだけれど、私の意図するところの意味はどうもないようで、ネットで色々調べたけれどこれは覚え間違いをしたのかなあと思っていたら、言葉にタームというルビが振ってあった。そう、その意味で使いたかったんです。たぶん別の春樹さんの作品で見たことある言葉だったんでしょう。
・最近セックスというものについてずいぶん考えるところがあったので、(『闇の子供たち』を見たのもその辺が関係していると思う。だから主に性暴力というのがテーマだったわけですが。暗い)今回のこれでもかとてんこ盛りセクシー路線もおおお、と思いました。
・環!

 他にも個人的にがーんときた、というのがいくつかあったように思うのですが、また思い出したら書きます。0724追記。

 ふかえりって青豆のドウタなんじゃないのかなあ。(ファザとサンという言葉はないのだろうか)

2009-06-20

村上春樹 アフターダーク

 ふと『アフターダーク』を読みたくなったので読んでいます。あのテレビの中に閉じ込められていた男って誰なんだっけと思って。

 暴力というものを考えるとき、なんとなく私は自分が被害者になることについて考えます。けれど本当に考えなくてはならないのは、人は暴力をふるう立場につくことがある、ということなのかも知れません。
 春樹さんも昔は被害者側のことを描かれる事が多かったように思いますが、最近は意図的に加害側のことを書いておられるようです。(いや、昔からかいてるか。「沈黙」の主人公とか。あと、人を本当に傷つけるのは、暴力を受けた記憶より暴力を振るってしまったという事実にだとも言われていました。これは当時も今も私にはずいぶん深く響きます)
 中国人娼婦に理不尽な暴力を向ける白川、彼はなんというかごく普通の男の人です。むしろ普通の人より意識的に生きている、私にとっては感情移入しやすいキャラクターになっていると思います。

 最近またあまりニュースをみない生活に戻ったので、あの事件がその後どうなったのかしりませんが、母と息子が殺されたあの事件、どうなりましたかね。報道をきくのも恐ろしくて避けていたんですが、犯人は分かったんでしょうか?

 阪本順治の『闇の子供たち』のレビューが増えていたので読んでいたんですが、性犯罪や搾取はもっと身近で起こっているはずだ、と仰られている方がいて、(多分夫婦とか家庭の中で起こっていることを指しているのだと思います。誘拐監禁だけが問題なのではないと)また阪本さんと春樹さんが交錯したなあと。

 ところでみなさま『1Q84』は手に入りましたか?私は大人しく増版を待っています。初版にそんなにこだわるほうじゃないんですが、カフカからずっと初版で手に入れていたので少しくやしいです。 ついでにジョージ・オーウェルの1984も読んでみたいですね。

2009-06-10

宮崎駿 風の谷のナウシカ 四巻

 クシャナのお兄ちゃんの、「頭のいい女は嫌い」というセリフを見たくて4巻を読み返していたのですが、クシャナって優しい人間だったんですね。憎み続けていた敵が目の前で死んだとき、彼女は確かにその死を悼み哀れんでいたのですよね。やっと気づきました。
 このときのクシャナの顔はこれまでと全然違った顔つきで、幼く優しげな顔をしています。彼女は優しくて愚か(無垢って意味で愚か)な、ナウシカや王蟲のような人なんですね、確かに。

 私はずっと「賢くならなきゃいけない」と思って生きてきましたが、(そしてやはり愚かであるということが、どれほどの悲劇を生んできたか、それは考えなければならないことだと思うので(栃木の彼らは無限に愚かです。愚かであるということはやはり罪だと思う)だからこそ「賢くあらねばならない」と思うのですが)本当に大切なのは愚かであっても優しくあることなのかもしれません。
 優しくても愚かだと結局音吉のように「ビルマで人には言えんようなことをやりましたなァし」ということにもなりかねないので、やはり賢くなければいけないとも思うんですがね。

 私はもう無垢には戻れない人間ですから、(認識の木の実を食べた人間は二度とエデンに戻ることはできない、無垢と経験の歌だ)今更愚かになることは許されていないのかもしれませんね。

 いかんなあ、何でこんな暗い事ばっかり考えているんだろう。でも書いておいた方がいいような気がするので書きます。
 1.耐えることはそんな難しいことじゃない
 それが死にいたるほどの苦痛であるのなら耐えられなければそれは死んじゃうということだし、生きているということは耐えたということになるから。神になるのはそんな難しいことじゃない。耐えて生きればキリストになれるし、死んだら仏にもなれるよ。耐えられるか耐えられないかということに、意志とか意志の強さとか、そういうことは関係ない、こちら側に選択肢は多分ないから、選ぶことでもない。
 2.べきという言葉が嫌いな人がいたなあ
 まあここにもよく書いてた職場の上司なんですが。「するべきとかあるべきとかそんな風に決め付けないほうがいい」とよく言われた。でも私はずっとべきの世界で生きてきたから、今さらそれは変えられないなあ。
 3.結果的に使い殺されたことについて
 前の職場で、結果的には私という人間は負けてしまって、潰れてしまった。そのことに関して個人的に哀悼してくれてる人もいた。(とても意外な人物だった)「あなたは決して考えない人じゃないから今回のことも考えた末に出した結論だろうから、間違ってはいないと思う」と言ってくれた人がいて、そういってくれる人が一人でもいれば、これから先もやっていけるかもしれない。かもしれない。


 バランスが悪いので日記に最近作った料理のことを書くこと。

 表題と関係ないことを長々とすみません。でもついでだから。
 無垢であることと賢くあることは両立できることなのかもしれない。愚か=無垢だとして。ナウシカもオームも無垢だけど賢いから。でも賢しらではないよね。
 無垢だということは経験していないということ、もしくは経験していても染まっていないということ。だから経験しても染まらなければ無垢でいられるのかも知れない。無情と有情の歌。

2009-06-05

 古道具屋で買ったオランダ産ペーパーナプキンの柄を参考に描いてみました。あと『天井桟敷の人々』のガランス。

2009-06-04

メモ

 どうもこんにちは、人生迷い中のtowaです。
 今日仕事の記事を大分下げました。もしかしたら次はもう福祉の仕事はやらないかもしれません。
 なかなか集中できなくて本読みも進んでいませんが、なぜか絵は描いていたりするから不思議です。そのうち絵のページを作るかも、それか今までどおりピカサに上げるか。

 ところで、誰かリアクションとって下さい....お願いしまっす。ランキングとかじゃないですから!

 6.5追記
 ありがとうございます!↓

2009-05-22

ヘルマン・ヘッセ デミアン

われわれが一度きりの人間以上のものでないとしたら、われわれのだれもが一発の銃丸で実際に完全に葬り去られうるのだとしたら、物語を話すことなんか、何の意味も持たないだろう。
ヘルマン・ヘッセ『デミアン』新潮文庫 はしがき P8より

2009-05-10

メモ

 実は携帯を変えたときにいくつかここの記事を落としております。マルケス『予告された殺人の記録』、太宰『津軽通信』(その他)、ランボー『飾画』。他にもあったような気がします。電池が完全に壊れてしまって、データごと沈黙しているのです。
 現在はジョン・アーヴィング『ガープの世界』を読んでおりますが、これはちょっと苦手かも。

5.30 追記
 ランボーの感想、珍しく紙に書いていたので、本に挟んでおいてありました。(たいしたことは書いてませんが)
 予告された~の方は結構頭に残っているので後は書くだけという感じです。
 太宰が完全に落ちましたね。

 ガープの世界、最初のほうはアメリカ人の書いたものを読むときによく感じることなんですが、文が散漫というか、人称や視点が安定していなかったり、話が飛んだりする感じが苦手と感じましたが(アメリカ人で愛読しているのってサリンジャーとカーヴァーぐらいと思ってました。あの二人は特別)今はそういうこともなく面白く読めております。ガープがヨーロッパに行って、ペンション・グリルパルツァーを書いたあたりです。

2009-04-30

ジャック・ロンドン 野性の呼び声

彼等のいのちは、二分の一はおろか四分の一にも消え細っていた。どのイヌも骨の入った皮袋にすぎず、その中で、いのちのほのおだけが、かすかにまたたいていた。そりが止められると、イヌたちは引き革につながれたまま死んだように倒れてしまい、そのいのちの火はかすかになり、消えてしまいそうだった。そして棍棒なり鞭なりが彼等に振りおろされると、そのいのちの火はまた弱々しく燃え上がり、ふらふらと立ち上がって、よろめきながら歩き出した。(P89)

2009-04-21

宮本輝 螢川・泥の河

停電で付近一帯の灯りが消えた。蝋燭の火が拡がるまでの短い時間の、ひきずり込まれていくような暗黒の中で、信雄はふと死んだ馬車の男を思い出した。彼は手探りで父を捜した。晋平のすったマッチの火が、闇の中で蝶のように舞った。(宮本輝『螢川・泥の河』新潮文庫P23)

 輝さんこんな文章書いてたんだなあ...。きゅーんとしました。ストーリーテラーとしての輝さんにはそれほど惹かれないのですが、この情景描写は素敵だなあ。
 昔(多分まだ高校生のとき)読んだときは、泥の河のほうが好きで、螢川はあまり心に響かなかった覚えがあります。多分中学男子の性の目覚めの部分が生理的に嫌、とかそんなだと思いますが。
 今回読んで思ったのは、上にも書いたように、この頃の輝さんの文章は本当に絵的だなということです。情景がぱっと目に浮かぶ、しかも昔読んだときと殆ど変わらないイメージが広がったような気がします。

 処女作がその作家のこれからの作家人生のすべてを包含している、というのは、たとえば村上春樹や村上龍の場合当てはまらないことのように思います。(春樹さんはまさかあの処女作を読んで、海辺のカフカまでいく人だとは思わないでしょうし、龍さんの場合、正直、『限りなく透明に近いブルー』を超えるものを最後までかけなかった、という思いがある。別方向の傑作はあるのですが、あの、処女作の方向性で伸びていかなかったことには本当にもったいないことをしたなあと思うんですよね。←大きなお世話)
 輝さんはそういう意味では、処女作から今に至るまで、一貫した何かをすでにしっかりと持っておられる方だなと思いました。特に処女作が「泥の河」というのはすごいです。流転の海で描いたように、人はすべて泥沼のようなものであり、しかしその泥の中にこそ、白い蓮の花は咲くのだという、人間観。
(こういうことは軽々しく口にすべきことでないのかもしれませんが、春樹と龍はおそらく両親からしっかりと愛されたことがない、という欠落を持って生きている人だと思うんですよね。そして輝さんは、反対に、父からも母からも確かなまっとうな大きな愛を受けて育った人だと思うんです。これは仮説です。)

 ちょっと話しずれますが、ずいぶん以前から私は「かえるくん」という題名で絵をかけないものかと色々考えていたのですが(わたしのかえるくんは東京を救わないし、ドストエフスキーもアンナ・カレーニナも読まない、云々)(ピカサに2枚(スマン、1枚だけでした)ある池と人の絵はかえるくんです)螢川の黒い水藻を全身にまといつけ、深い用水路の澄みきった水の上にうつぶせて死んでいるさまが、まるではっきりと見届けたもののように思い描かれていた。(P155) というところを読んで、ああそうか、私の描きたかったものって水死体だったんだと、なんか妙に納得しました。水死体のイメージというと、正確には水死体ではないのですが、吉田秋生『カリフォルニア物語』の中の、ヒースの夢に出てくるイーヴであろうなと思います。これもやはり高校生のときに読みましたが、本当にすごいショックを受けた話でした。
(ちなみに当然のようにグリーン姉さんは観賞済み)

 話を戻しますと、大阪の街というのは本当に河の多いところで、私は特に夏場、大阪に行くのがすごく嫌です。耐えられないくらい腐った水の臭気が立ち込めているのですよね。本当に、どこに行っても臭くて息苦しくて、夏はなるべく買い物に行くにしても京都に行くようにしています。タイガースが優勝するとあの腐った河に飛び込むやからがいるとか、そして飛び込んだ人の中には病気になって死んだやつもいるとか、(たぶん流言飛語)、そのため機動隊まで出て飛び込みを阻止したとか、(これは本当)何という物騒な河なんでしょうね。
 へその緒のついた赤子の死体も、大風に飛ばされた家財も、鬱金色の煌めきも、体を売って暮らす母子の船も、少女のつつましい美徳と、少年の狂気も、すべてを抱え流れる河、そんな「泥の河」から無数の沙蚕をくみ上げる老人。ゴカイって字だけ見るとまるで美しいもののようですね。
 信雄はこの沙蚕汲みの老人をとても怖がっていて、話の中盤で老人は信雄の目の前で消えてしまいます。これって何でなんだろうと思っていたんですが、よく考えたらだからこそ輝さんは神経症にかかってしまったんでしょうね。それは暴いてはならないもの、なんでしょうね。

2009-04-19

宮本輝 天の夜曲 流転の海 第四部

 読了いたしました。母の話によると第五部は図書館においてなくて、予約もしていないんだそうだ。母より先に読んでしまったもので、このシリーズもしばし休憩となりそうです。
 ようやっとというか、熊吾さんがものすごくかっこよく見えてきました。一巻で房江が初めて熊吾の胸にもたれかかったときのこととか「こりゃあ生娘を抱くより難しいのお」と言ったこととかを思い出して、そのとき房江はどんなにか幸福に思っただろう、そんなことを考えてました。だからこそ、そんな夫に殴られたときの房江の気持ちというか、落胆というか、諦念というか、分かるような気がします。

 「自分の自尊心よりも大切なものを持って生きにゃあいけん」(P50)
 これも素敵な言葉ですね。というか、海老原太一にだけは頭を下げたくない、そういいながら妻子のために土下座までする熊吾さん、お父ちゃん!かっこよすぎだよ。
 あ、そうそう、熊吾さんとおんなじで、私のお父さんもグーで殴ったことはないから!父の名誉のために言っときます。跡が残るほど叩かれたこともないよ。(うちの犬は角材で殴られたりしてましたが。俺男でなくて本当によかったと思うよ。多分びしばししばかれていたろうから)

 後学のために熊吾父さんの「これが大事」という言葉を書いておきます。
「約束は守らにゃあいけん」
「丁寧な言葉を正しく喋れにゃあいけん」
「弱いものをいじめちゃいけん」
「自尊心よりも大切なものを持って生きにゃあいけん」
「女とケンカしちゃあいけん」
「なにがどうなろうと、たいしたことはあらせん」(P242)

2009-04-15

宮本輝 血脈の火 流転の海 第三部

 読了いたしました。
 つじどー...。泣き。
 なんか作中で、美津子(でしたっけ)が「わたしは一生あの人のなくなった奥さんや子どもさんにかなわんようなきがすんねん」と言って辻堂との縁談を断ってしまったというのが信じられなかったりします。私だったら、一生「お前のことは4番目に好きや」と言われるはめになっても、辻堂君と結婚するな。というかそのくらいのほうが私にはちょうどいいかもしれない。自分以外に死ぬほど大切な人がたくさんいる人のほうが素敵じゃないかと思うんですけどね。どうなんでしょうね。彼には本当に幸せになってもらいたいなあと思います。(そして変な話ですが「私だったら幸せにしてあげられるのに」みたいにも思うんです)

 亜矢子と獣になる辻堂もまたよし。

 でもしかし、読めば読むほど、辻堂君はいつか熊吾のことを痛烈に裏切るのではないかという懸念に胸が苦しくなります。それも決定的なむごいことをするんじゃないかと。なぜかそう思ってしまいます。

 さて、ネットでちょっとこの作品のことを検索してみたところ、うちの母はもう完結していると言っているのですが、どうやらまだ続くようですね。5部が終わってようやっと伸仁12歳らしい。熊吾が死ぬのまでにまだ10年くらいありますね。
 wikipediaで宮本輝の本名が正仁であることを知り戦慄したり、愛媛暮らしも大阪、富山に行ったのも全部宮本輝自身に起こったことらしいし、(ということは父の愛媛弁も本当のことということになりますね)「あ、これ泥の河」とか「あこれは螢川」とか、思っていた以上に宮本輝の自伝的小説のようです。
 『泥の河』をもう一度読みたいなあと思っています。文庫がうちにあったようななかったような。米びつの中に手を突っ込んで「暖かい」と言う少女と「冷たい」という少年、位しか覚えていないのですが、何かすごく静かな心持になったのは覚えています。

 ついでに、宮本輝の小説は多分『青が散る』が初めてだったのではないかと思います。内容はあまり覚えていないのですが、「俺はボールの影の部分を見て打つ、そうすることしかできない人間なんや」というようなせりふが印象深く、何か共感したように思います。 作品リストを見ると、自分が思っている以上にたくさん読んでいるようです。草原の椅子までというと2/3は読んでいますね。

2009-04-12

宮本輝 血脈の火 流転の海 第三部

父なるものへの処し方を知らないことが、麻衣子を女として頑迷にさせている。甘え方を知らず、許し方を知らず、怒り方を知らず、くつろぎ方を知らない。(P186)

 うう、ぐっさり刺さった、特に最後のくつろぎ方。

 熊吾は麻衣子がそうなったのは「父の愛情を知らずに育った」せいだと考えます。

 私、お父さんのこと大好きだったなあ。帰ってきたら玄関まで走って迎えに行ってたし、いってらっしゃいのチューもしてた。夜遅く父が帰ってきて、もう寝てる姉と私のところにきて、私たちは二段ベッドで寝ていて、姉が下で私が上で、姉の布団にもぐり込んだ父が、下から二段ベッドの板をばふばふ蹴って、「おうい、おきとるか」とか言って、私は急いで下に降りてって、姉と父の間にもぐり込んで、姉と二人で「お父さん面白い話して!」と言う、父は「アリが10匹、ありがとう」的な超下らない話して、姉と私は笑い転げて「他には?他には?」なんて、3人で狭い布団の中でもみくちゃになってゲラゲラ笑ってた。

 思春期になって、父のことを拒絶するようになったのは、自然の摂理として仕方のないことだったのかな、とも思う。でも父のこと、ぐっすり寝ている間にいつか刺し殺してやる、というほど思い詰めたのは、なぜだったんだろう。

 父と私の間にあった確執は、割合今解消されてきています。私が3年前実家を出たのは、父と激しい喧嘩をして、「そんなに嫌なんやったら出ていけ!」と怒鳴られたからであったけれど、(あと生まれて初めて足蹴にされた。痛くはなかった。私もお返しに父のどでかい電卓をぶん投げて、電卓は壊れ床がへこんだ。父の暴力に暴力で返したのはそれが初めてで、そのことについては父なりに感じるところがあったようです。それ以後は今のところ、手をあげられたことはない)これは父にももう言ったけど、「家を出るきっかけをもらった、背中を押してもらったようなものだ」と今は思ってます。(これ、思ってるというより、なんか口をついて出た言葉なんだよな)

 昔は父が、例えば外食をして、店の人に癇癪起こして(態度が悪いとか)「責任者呼べ!」なんて悶着が起こると、恥ずかしくていたたまれなくて、誰彼構わず怒鳴り散らす父を軽蔑して、憎んで、恐ろしくて、そもそも男の人の大声を聞くと(たとえそれが悪意のないものでも)体が固まってしまうということになったものです。

 今は「まあまあ、お店の人も謝ってくれてるし」と取り成したり、私を駅まで送ってくれて、タクシーの運ちゃんと喧嘩したときは、「帰りの車気ぃつけや、カッカしたらアカンで」と、父の心配までするようになった。いつの間にかそんなことができるようになってました。まあ私も28だし、それくらいできて当然なのかも知れませんが、それでも我ながら、よくできるようになったなと思います。一時は「いつか殺してしまう」と本気で思ってたんですがね。


 と、すみません、長々と流転とは関係ない話して。


 この熊吾さんが、自分の命より慈しんだ息子の伸仁に激しい憎悪を向けられることになるというのは、熊吾の業なのか、伸仁のものなのか、彼らの来し方によるものなのか、必然であったのか、運命であったのか、ともかく、宮本輝という人が『流転の海』をライフワークと思って取り組んできたというのは本当によくわかります。

 父を憎み母を憎み、自分の来し方を憎むということは、すなわち自分自身を憎み否定することなんですよね。なんか高校生ぐらいの時によくそういうこと考えてたなあ。(今はちょっと違う見方をしている)


 さて、一つだけ気になってこと。

 その一角と、窓辺に干された女物の水着とが対を成して、一種退廃的な、すさんだ寂しさを漂わせていた。(P210)

 これはやっちゃだめでしょ。いかにそのシチュエーションを作り上げ、「一種退廃的な、すさんだ寂しさを漂わせ」られるか、読者の頭にそれをありありと浮かばせるためにどのように書くか、心を砕く身としては(大変生意気申しておることは承知致しておりますが)こういう書き方をしちゃう輝さんはやはり大衆小説家なのだと言わざるを得ないかと。大衆小説のどこがいけないんだ、というと、どこも悪いことなんかないし、輝さんの場合それは枝葉だと言ってしまえる骨太いストーリーの流れがあるから全然いいんですけどね。(とうとうと流れる泥の河ですよ、まさしく。ほんでところどころ、汚濁の中に蓮の花が咲いてるんでしょ。いいじゃないですか)ただ私は流転を読み終わったら、もう輝さんの本は読まないと思います。

2009-04-08

 

 最近なんとなくよく唱える文句。

 ああ眠りたい煮られたい、ソロモン王の祭壇で(眠いのに眠れないとき)

 しかれどもうつくしきわがなせのみこと、いりきませることかしこし(特に意味はない)

 鳥の血に悲しめど、魚の血に悲しまず。(イノセンスより)

2009-04-05

宮本輝 地の星 流転の海 第二部

「(略)なんぼ戦争やっちゅうても、これが人間のすることやろかと思うようなことをやりよるのは、たいてい、いなか者の百姓出身の兵隊じゃ。若い女を犯して殺すのも、年寄りや子供の首をはねるのも、たいてい、いなか者の百姓出身の兵隊じゃ。なんでですかのお。なんで、いなか者の百姓が兵隊に徴られると、あんなえげつない残酷なことを平気でやるようになるんじゃろ……」
宮本輝 『地の星 流転の海 第二部』 新潮社 P91

 栃木のど田舎のヤンキー3人になぶり殺された、彼のことを思い出しました。主犯の萩原は本当にどうしようもないバカ者だったようです。無期懲役の判決が降りたとき、「正和くんのぶんまで生きたいです」と言ったそうなのだ。

 私のしていることは間違っているかもしれません。個人的な制裁を加えるというようなことはしてはいけないことなのかもしれません。それでも、私は被害者である正和さんが実名だされるなら、犯人たちの実名もだされるべきだと思っています。

 私のしていることが間違っていると思う人は遠慮なく仰って下さい。

 人が生きたり死んだりするのに意味なんてない場合が多いのはよく分かっているし、そういうものだと思ってはいますが、それでも彼があれ程の苦痛と絶望を味わわされて、殺されていった、それもなんの救いも意味もなく。ということに、涙が出る。

 音吉は上のせりふを言ったあと、しばらく別の話をし、それから熊吾に問われてこう答えます。

「わしは、わしが死んだあと、閻魔様にしか裁いてもらえんようなことを、ビルマの収容所でやりましたなァし。どんなことやと訊かんといてやんなはれ」(P94)

 彼もまた田舎の人間です。田舎から徴用された田舎出身の兵隊であったのです。
 音吉は夜中に急に恐ろしくなって、屋根に上って奇妙なダンスを踊ります。彼は、そうしていると、昔のように、親父がやってきて、「何をそんなにおそろしがっとるんや、お前が悪いんやない、お前が悪いんやないぞ」そう言って、抱きしめてくれるような気がするのだ、と答えます。
 私はしばらく本を閉じて泣きました。

2009-04-04

宮本輝 流転の海 第一部

 宮本輝という人は、おそらくトルーマン・カポーティー型の人間なのではないでしょうか。よそにあるどこかから物語をつむぎだすのではなく、自らの体験の中からしか小説を書くことができない人間。カポーティーの翻訳の解説で、村上春樹はそのように書いていました。
(ティファニーで朝食をの村上訳文庫本を本屋で見つけたので、解説だけ立ち読みしてきました。アンファン・テリブルってカポーティーのことを指す言葉だったんですね。てっきりハーモニー・コリンのことだと思ってた。もしかしてそれよりもっと古い言葉ですか?変に仏語・英語だし、最近の言葉だと思ってました。)
(すみません、ちゃんと調べてきました。アンファン・テリブルはフランス語で、ジャン・コクトーの小説の題名、早熟な天才児に冠せられる言葉、アンファン・テリブル ハーモニー・コリンで154件ヒット、アンファン・テリブル トルーマン・カポーティーで214件ヒットでした。)

 たとえば村上春樹という人はそれとはまったく違う物語の作り方をしているように思います。彼は自分の書いた物語の中に、具体的な実在のモデルを持つキャラクターがいることはまれだと言い、自らの体験をそのまま物語にしていくことは、マテリアルの消費、とまでは言っていませんが、それを続けていてはやがて何もかけなくなるであろう、というようなことを言っており、暗に否定しています。私の中でも、旅に出かけては、そこに着想を得て、エッセイを書き、小説を書く、宮本輝の作家としての姿勢に、疑問を持つようになり、それで彼の作品を読まなくなったようなものです。(まあそれとは別に、エッセイと小説に殆ど同じエピソードが出てくるもので、なんとなく損したような気もしていましたし)

 しかし実を言うと、おそらく私という人も、もし小説を書くのであれば、そのようにしてしか書けない人間なのだろうなと思います。私どうしても「物語を適当に作る」ということができないんですよね。自分の体験したことだったら書けるけど、何もないところから作り出したり、春樹さんのように「マテリアルを一旦溶解ししかるべき大きさにちぎって使用」なんて、言っていることは分かるような気がしますが、自分にはできそうにもありません。

 私は自分が小説を書くことがあるとすればいつか書ける日が来るはずだから、と思って、その日が来るのをただ待っているのですが、多分おそらく、書き方のモデルとして村上春樹を据えるのはやめておいたほうがいいんだろうな、そんな気がしました。


 さて、流転の海ですが、ごめんなさい、きちんとした感想というよりは、「辻堂君がかっこいい」みたいな与太話しか出てきそうにないです。(およ、つじの字が出ないわ) (ていうか辻堂くんに裏切られたら立ち直れんかも知れん)

 私のお父さんはここまで強烈ではありませんが、どことなく似たようなところを持っているような気がします。母も負けず劣らず気性が荒いですし、中高生頃のときに、そんな父母を激しく憎んだ、というのも、そのため現実逃避をするようになって、本ばかり読んでいた、というあたりも、私と重なる部分があるように思います。(私の逃避はそれほど酷くなかった。逃げるべき現実がやはり輝さんの場合度外れに強烈であるように思います。私が一番現実逃避をしたのは、高2の夏休みで、このときは10日で30冊の本を読みました。)前に読んだ『本をつんだ小船』によれば、宮本輝が神経症を患って会社を辞めたのは28歳、今の私と同い年ですね。(すみません、これ間違い、パニック発作が出たのは輝さん25歳のときだそうです)



 絵を描きたいなあと思います。本を読んでいてそのキャラクターを描いてみたいと思うことはこれまであまりなかったことのように思うのですが。忘れないようにメモしとこう。

・辻堂忠上等兵
・熊吾さん鶏の血まみれ
・富岡君(辻堂くんのお友だちの絞首刑になった人)
・貴子とアカ
・房江
・春菊
・熊吾と伸仁(聖母子像みたいな感じで。熊吾さんはふんどし一丁)
・泥の中の蓮の花

 着物とか牛とか鶏とか褌とかいろいろ資料を集めなければ...。辻堂君が何を着ているのかよく分からないけどなんとなく和服を着ているところがいいなあと思います。(そんな描写なかった気がするけど)貴子も野良着ではなく花嫁衣裳を着て牛に乗っていたらどうだろうとか思ってます。春菊さんは赤の襦袢、房江はお茶屋の会計係の頃でやはり和服。日本髪のかつらってどんなでしょう。『さくらん』の映像やはり残しておけばよかったなあ。そういえばこないだoekakibbsさんで「おいらん道中」の絵を見たなあ。

2009-03-09

映画について

 お気に入り、お勧め映画を詳細プロフィールに書きました。調子に乗ってアホ程書いてみました。日本語と原語と英語とで書いているので、だいぶ重複してますが。また見てみてください。

2009-03-06

これでいいのか

 非常な力技でトラバとリアクション機能というものを付けてみました。(コメントは送れません。一回押してももう一回押すと解除できるみたいですよ)ちゃんと動作するのか謎。翻訳リンクも見た感じ変なところについていたので無理やりpタグで括ってみたら、なんかうまくいきました。後はサイドバーにトラバ一覧みたいのがついたらいいなあと思っているのですが、ブロガーウィジェットにはそのようなものがなく、どうしたらいいのでしょうね。わからん。それと多分今の設定だと、ホームページではトラックバックされてる記事が表示されなくて、個別記事ページに移動しないといけないっぽい。これもどうしたら表示されるようになるのかよくわからないよう。がんばります。
 そもそもブロガーブログにトラックバックを打つには多分ブログ管理者側にある程度知識がないとできないのだと思います。

::こちら::(クリボウさまの「Blgger入門」です。お世話になっております)

 テスト用ブログからバックリンク打ってみたのですが、やはり反映されてませんね。ううむむむ。

03.12. 追記
 力技でも何でもこの際表示されてればそれでいいべ、と割り切って、力でねじ伏せてみました。テーブルタグが使えるとは。みとみやすテーブル使いのこの力瘤、超強引。笑い。とりあえず見た目は変わりましたが、相変わらず機能するのかどうかは謎です。
 バックリンクに関しましては、テスト用に作ったブログがクロールされていないのが原因かと思われます。これはどうしようもないから時間が解決してくれるのを待とう。
 後は投稿者名、ラベル、翻訳、のそれぞれがとっちらかっているのをなんとかしたいんだけど、これがなんともならんのだよなあ。頑張ります。
 ところで著作権的にこのいじりはゆるされるのだろうか...謎。

2009-03-01

フランツ・カフカ アメリカ

 読んでないと言いつつ読んでしまったので感想書きます。

 カフカの小説は結構読んでいるのに感想は一つも書いてませんね。決して面白くなかった訳ではありません、書くのが難しいだけです。頑張ります。

 アナグマについての確定情報。アナグマはヨーロッパではポピュラーな存在である。
 ということは「巣穴」の動物はアナグマであると考えられる。

 『城』『審判』『アメリカ』それと「巣穴」はほぼ同じ話といってしまっていいと思います。同じ話のバージョン違い。全ての話が避けがたく未完で終わっています。特に「巣穴」に関していうと、あの終わり方は決して続きが書けなかったわけではないでしょうし、完全に確信犯です。読みながら「これはまさかまさか、以下エンドレスリピート、みたいになるんじゃ...」と思ってましたが、まさにその通りの終わり方でしたね。いい締めだと思いました。
 だいたいすらすらと読めたんですが(アメリカに関しては)第七章「隠れ場所」は例によって例のごとく、女にぬるぬる絡めとられ破滅に向かおうとする主人公を見ているのが辛くて、何度か本を置きました。カフカって実はお父さんとではなくお母さんとの間にこそ、解決しなくてはならない深い問題を抱えていたのではないかと邪推してしまうくらい。(分かってます、それは私のことです)
 しかし本当にカフカの話はみんな女でつまずくんだなあ。年上の女に愛されたがためにアメリカに放り出されるカール・ロスマン、いかにもじゃないですか?

(ちょっと中途半端な文章ですがこのままアップします。すみません)

2009-02-08

メモみたいな 村上春樹 遠い太鼓

 ずいぶん前にここで、「伝えるということにもっと慎重であるべきだ」というようなことを書いたが、もっとも伝えるということに頓着していないのは私なのである。
 私がここで色々書いているのはつまりは表現したいからであって、何かを伝えたいとは特に思っていない。表現とはそれ自体が目的なので、結果伝わったか伝わらなかったかは重要ではない。
 ここの名前が「そうして私は沈黙する」であるのは多分そういう意味なのである。ここで私は喋って喋って、そして最終的には沈黙する。そこにあるのはきっと、何をもってしても埋めることのできない空白であり、無だ。

 最近例によって本を読んでいなくて、(映画は割に見ている)『アメリカ』も、こんな散漫な状態で読むのなら読まない方がまし、と放り出してある。代わりに『遠い太鼓』を頭から終わりまで読んだ。

********メモ終わり********

 『遠い太鼓』は村上春樹の旅行紀で、90年に出版されました。今回読んで面白いなあと思ったのは、前半から後半にかけて、春樹さんの文体がじりじりと変わっていくことでした。春樹さん自身、今ならこうは書かないと思うところもあるが、これこれこういう主旨の本なのでそのままにしています、と書いている。前半はいわゆる都会的で翻訳的な、まだ新人の頃のムラカミ文体です。(私はこれが苦手だったりする)後半になるにつれて、よりニュートラルな今の文体に近くなっていきます。
 この作品は中の断り書きにもあるように、いくつかの章は単独で発表されたり、短編の雛形になっている章(「人喰い猫」や『スプートニクの恋人』など)があったりします。そのため旅行紀を読んでいるというより、連作短編を読んでいるような感じがあります。それは蜂のジョルジョと蜂のカルロの羽音を通低音にした、長い長い、不変の物語です。僕は何処にでも行けるし、何処にも行けないのだ。
 中のいくつかの章に私は深い愛着を持っています。ひやりとさせられるほどの深い無力感(「アイロンのある風景」を思い出す)や小説家として生きていくことの痛みと決意、ただの旅行紀、エッセイとして、片付けてしまえない、(でも深いとも単純に言いたくない)一つの独特の作品世界があります。