宮本輝 螢川・泥の河
停電で付近一帯の灯りが消えた。蝋燭の火が拡がるまでの短い時間の、ひきずり込まれていくような暗黒の中で、信雄はふと死んだ馬車の男を思い出した。彼は手探りで父を捜した。晋平のすったマッチの火が、闇の中で蝶のように舞った。(宮本輝『螢川・泥の河』新潮文庫P23)
輝さんこんな文章書いてたんだなあ...。きゅーんとしました。ストーリーテラーとしての輝さんにはそれほど惹かれないのですが、この情景描写は素敵だなあ。
昔(多分まだ高校生のとき)読んだときは、泥の河のほうが好きで、螢川はあまり心に響かなかった覚えがあります。多分中学男子の性の目覚めの部分が生理的に嫌、とかそんなだと思いますが。
今回読んで思ったのは、上にも書いたように、この頃の輝さんの文章は本当に絵的だなということです。情景がぱっと目に浮かぶ、しかも昔読んだときと殆ど変わらないイメージが広がったような気がします。
処女作がその作家のこれからの作家人生のすべてを包含している、というのは、たとえば村上春樹や村上龍の場合当てはまらないことのように思います。(春樹さんはまさかあの処女作を読んで、海辺のカフカまでいく人だとは思わないでしょうし、龍さんの場合、正直、『限りなく透明に近いブルー』を超えるものを最後までかけなかった、という思いがある。別方向の傑作はあるのですが、あの、処女作の方向性で伸びていかなかったことには本当にもったいないことをしたなあと思うんですよね。←大きなお世話)
輝さんはそういう意味では、処女作から今に至るまで、一貫した何かをすでにしっかりと持っておられる方だなと思いました。特に処女作が「泥の河」というのはすごいです。流転の海で描いたように、人はすべて泥沼のようなものであり、しかしその泥の中にこそ、白い蓮の花は咲くのだという、人間観。
(こういうことは軽々しく口にすべきことでないのかもしれませんが、春樹と龍はおそらく両親からしっかりと愛されたことがない、という欠落を持って生きている人だと思うんですよね。そして輝さんは、反対に、父からも母からも確かなまっとうな大きな愛を受けて育った人だと思うんです。これは仮説です。)
ちょっと話しずれますが、ずいぶん以前から私は「かえるくん」という題名で絵をかけないものかと色々考えていたのですが(わたしのかえるくんは東京を救わないし、ドストエフスキーもアンナ・カレーニナも読まない、云々)(ピカサに2枚(スマン、1枚だけでした)ある池と人の絵はかえるくんです)螢川の黒い水藻を全身にまといつけ、深い用水路の澄みきった水の上にうつぶせて死んでいるさまが、まるではっきりと見届けたもののように思い描かれていた。(P155) というところを読んで、ああそうか、私の描きたかったものって水死体だったんだと、なんか妙に納得しました。水死体のイメージというと、正確には水死体ではないのですが、吉田秋生『カリフォルニア物語』の中の、ヒースの夢に出てくるイーヴであろうなと思います。これもやはり高校生のときに読みましたが、本当にすごいショックを受けた話でした。
(ちなみに当然のようにグリーン姉さんは観賞済み)
話を戻しますと、大阪の街というのは本当に河の多いところで、私は特に夏場、大阪に行くのがすごく嫌です。耐えられないくらい腐った水の臭気が立ち込めているのですよね。本当に、どこに行っても臭くて息苦しくて、夏はなるべく買い物に行くにしても京都に行くようにしています。タイガースが優勝するとあの腐った河に飛び込むやからがいるとか、そして飛び込んだ人の中には病気になって死んだやつもいるとか、(たぶん流言飛語)、そのため機動隊まで出て飛び込みを阻止したとか、(これは本当)何という物騒な河なんでしょうね。
へその緒のついた赤子の死体も、大風に飛ばされた家財も、鬱金色の煌めきも、体を売って暮らす母子の船も、少女のつつましい美徳と、少年の狂気も、すべてを抱え流れる河、そんな「泥の河」から無数の沙蚕をくみ上げる老人。ゴカイって字だけ見るとまるで美しいもののようですね。
信雄はこの沙蚕汲みの老人をとても怖がっていて、話の中盤で老人は信雄の目の前で消えてしまいます。これって何でなんだろうと思っていたんですが、よく考えたらだからこそ輝さんは神経症にかかってしまったんでしょうね。それは暴いてはならないもの、なんでしょうね。
