2009-02-08

メモみたいな 村上春樹 遠い太鼓

 ずいぶん前にここで、「伝えるということにもっと慎重であるべきだ」というようなことを書いたが、もっとも伝えるということに頓着していないのは私なのである。
 私がここで色々書いているのはつまりは表現したいからであって、何かを伝えたいとは特に思っていない。表現とはそれ自体が目的なので、結果伝わったか伝わらなかったかは重要ではない。
 ここの名前が「そうして私は沈黙する」であるのは多分そういう意味なのである。ここで私は喋って喋って、そして最終的には沈黙する。そこにあるのはきっと、何をもってしても埋めることのできない空白であり、無だ。

 最近例によって本を読んでいなくて、(映画は割に見ている)『アメリカ』も、こんな散漫な状態で読むのなら読まない方がまし、と放り出してある。代わりに『遠い太鼓』を頭から終わりまで読んだ。

********メモ終わり********

 『遠い太鼓』は村上春樹の旅行紀で、90年に出版されました。今回読んで面白いなあと思ったのは、前半から後半にかけて、春樹さんの文体がじりじりと変わっていくことでした。春樹さん自身、今ならこうは書かないと思うところもあるが、これこれこういう主旨の本なのでそのままにしています、と書いている。前半はいわゆる都会的で翻訳的な、まだ新人の頃のムラカミ文体です。(私はこれが苦手だったりする)後半になるにつれて、よりニュートラルな今の文体に近くなっていきます。
 この作品は中の断り書きにもあるように、いくつかの章は単独で発表されたり、短編の雛形になっている章(「人喰い猫」や『スプートニクの恋人』など)があったりします。そのため旅行紀を読んでいるというより、連作短編を読んでいるような感じがあります。それは蜂のジョルジョと蜂のカルロの羽音を通低音にした、長い長い、不変の物語です。僕は何処にでも行けるし、何処にも行けないのだ。
 中のいくつかの章に私は深い愛着を持っています。ひやりとさせられるほどの深い無力感(「アイロンのある風景」を思い出す)や小説家として生きていくことの痛みと決意、ただの旅行紀、エッセイとして、片付けてしまえない、(でも深いとも単純に言いたくない)一つの独特の作品世界があります。