2006-12-21

ガイド中の出来事

 電車を降り駅のホームで弁当を食べているときの事でした。ふと見るとSさんが右手の中指をしきりに気にしています。どうやら指のところが少し皮が剥けて、怪我をしているようです。その日ここに来るまでに散々もみ合いになったので、もしかしたら私の爪でひっかいてしまったのかもしれないと思い、ちょっと見せてとお願いしました。しかし彼女は嫌がって、傷がよく見えるようにと引っ張ろうとする私の手を掴んで止めます。何度かチャレンジするのですがやはり見せてはくれません。仕方ないのでじっくり傷を眺めている彼女の横から一緒に見せてもらいました。傷を見ながらSさんは「だめ」「触ったあかん」「取ったらあかん」と一人言を繰り返しています。その言葉はたぶん私に傷を見せたら言われるだろうと彼女が思っていることであり、これまでこんな小さな怪我をするたびに言われてきた言葉に違いありません。取ったらあかんというのはおそらく絆創膏のことでしょう。私は「見るだけ、何もせえへんから見せて」ともう一度お願いし手を伸ばしました。やはり彼女はその手をはっしと掴んで止めます。それからこう言いました「びっくりしたなあもう!」

 「びっくりした」という言葉はこれまでも嫌なことがあったときに彼女がしばしば口にするものでした。これは傷を見せるのが相当嫌なのだなと思い私は断念しました。
 しばらく弁当の続きを食べていました。彼女はまだ傷を気にしています。しきりにあかん、だめ、と小声で繰り返しながら。私はもう一度、傷の位置や程度を詳しく知るために横から覗き込みました。私がうっかり伸ばした手を彼女が掴みます。向こうに何度か押しやり、それからふと自分の方に引き寄せたのです。私はおやと思い引かれるままに手を伸ばしました。Sさんは私の手を自分の口の端に持っていきました。そこは朝から気付いていましたが、口角炎の痛々しい出来物があるところです。
 彼女の手の動かし方は一種独特のものがあります。指をぴんと伸ばしたまま不思議な角度でひらひらさせたり何かに触ったり。私の彼女の口に触れている手は、その不思議な彼女の手に何だかそっくりでした。まるでSさんが自分の手で触っているかのようです。彼女は一人言の口調のまま言いました。「びっくりしたなあもう」
 私はそこで気付きました。それは、ここが痛いのという彼女からのメッセージだったのです。さらに彼女は手の傷にも私の手をもっていって触らせ、ささやくように「びっくりした」と何度か言いました。間違いありません、手の傷も唇の端も痛いのです、そのことを私に教えようとしているのです。私は言いました。「そっかあ、痛いねんなあ。こっちは私の爪があたったんかな、ごめんねSさん」

 知的に障害が重い人の場合、形のあるもの、特に貨幣価値のあるものを作り出すのが非常に難しいことがあります。近所にある作業所を覗いてみて下さい。テレビでもいいのです。あるいは想像するだけでいいのです。私たちでさえ商品価値のあるものを作るのは難しいのに、障害を持つ人と福祉のことしか知らない支援者が寄ってたかったって、商業ベースに乗せられる物をつくることはどう考えても困難です。形にならないもの、お金にならないものに重きを置くのはまた、考えているよりずっと難しいことです。そうは思いませんか?
 この日のガイドは実は散々な結果でした。いつもできていることができない、行けているとこに行けない、まるで一昔前に戻ってしまったような感じでした。前回は大丈夫だったのになぜ?やっぱり私一人では荷が重過ぎるのか。別のヘルパーの時は問題なく行けてたのに...。けれど私はこういう後ろ向きな考えをあまり持ちませんでした、今回は。なぜか?
 私は次は必ず行けると信じています。今回はSさんの調子が悪かっただけなのです。朝から調子が悪そうなのも分かっていましたし、昨日のご様子をきいても、この日の全体的な調子をみてもそれは分かることです。前までの私なら、今日Sさん調子悪いねんな、ではなく、私の何がいけなかったんだろう、あれだろうかこれだろうかと、ぐちゃぐちゃ思い悩んでいたことでしょう。でも今回は大丈夫です。
 それは私がSさんのことを信頼しているからです。次はきっといけるという確信がもてる関係が私たち二人にあるからなのです。それは簡単にできあがったものではなく、これまでの積み重ねの中で少しずつ育っていったものです。そんな思いの一番根っこは、きっと、冒頭に書いたような小さな小さな二人のやりとりの中にあるのでしょう。

 上司の方に言われました。「伝わると思うから伝えようとするんやで。」そう、それはたかだか小さなさかむけが痛いということ、唇のできものが痛いということに過ぎません。けれど彼女は私にそれを伝えようとし、私はそのメッセージを読み取ろうとしていました。本当にそれが痛いという意味だったのかは分かりません。私がそう解釈したことが彼女につたわったのかも分かりません。でもそれはどうでもいいことです。一番大事なことはSさんにも私にも分かっているのですから。

 ここ怪我したの、ここ出来物できちゃって、そんなささいな、私たちにはいとも簡単に言葉にできることが、難しい人もいるのです。でも難しいから、だからこそ、分かり合えた時の喜びは何ものにもかえ難く貴重です。そんなささやかだけれど役にたつものたちに囲まれている私は何だか幸せみたいです。

 ちなみに、この次のガイド、だめでした。またもできてたことができず行けるはずのとこに行けず、もみ合い引っ張り合い二人とも転び、散々なことになりました。でも楽しかったです。なんかけらけら笑って帰ることができました。行けなかったねー、みたいな。笑。いい年の瀬でしたよ!

マルケス3 ママ・グランデの葬儀-1

「大佐に手紙はこない」
 手紙がこない話です。そして最後まで来ない話です。人はどんなに望むものでも、そしてそれがないと生きていけないものも、どんなに必要なものであっても、手に入れられないものは手に入れられないのです。
 大佐の待っていたものは手紙でもあり証でもあり同時にお金でもあると思います。生きていくために必要なのはキョウジではなくお金だからです。

2006-11-25

ドストエフスキー 永遠の夫

 なかなか普通に面白かったです。トルソーツキイよりヴェリチャーニノフに寄った読み方をしたのですが決して間違いではありますまい。しかし最後までちゃんとした名前を覚えられなかったです。新潮版では憂鬱症と訳されてましたが岩波ではヒポコンデリー(ロージャがかかっているとされてるやつ)でした。多分ヒポコンデリー(心気症か気鬱症という訳が一般的かな?)と言われていればそれほどヴェリチャーニノフに肩入れしなかったと思います。でも彼が見る悪夢の描写とかすごくうんうん分かる分かるという感じで面白かったです。
 二人の名前がそれぞれ、パーヴェル・パーヴロヴィチ・トルソーツキイとアレクセイ・ヴァリチャーニノフというのに何か凍りつきました。スメルジャコフとアリョーシャなんだ...と思って。
 購入したのは新潮文庫のほう。(訳に少し癖があって読みづらかった)岩波文庫のほうは最終章と解説を立ち読みしました。(岩波の方は旧漢字で読みづらかった、ほどでもないか)

2006-11-19

村上春樹 海辺のカフカ (「流刑地にて」を読んで)

 カフカ短編集を読んで村上春樹の『海辺のカフカ』について、その他いろいろについて、書きたいことが出てきたのでちょっとフライングして書きます。

 『海辺のカフカ』の最初の方に、主人公のカフカ君が自分の名前の由来であるカフカの小説について話す場面があります。彼は『流刑地にて』がカフカの短編小説の中では一番好きな作品なのだと言い、それのどんなところが好きなのかひとしきり語ります。そしてそのすぐ後、自分が本当に言いたかったことは伝わらなかっただろうし、「誰にどんなふうに説明しても理解してもらえないだろう」と言います。
 しかし誰にも理解されないそのことこそ、彼が誰かにどうしても分かってもらいたいことでもあるのだと私は思います。それが彼に父親の元から何がなんでも逃げ出さなければならないと思わせ、実際に旅立たさせる一番の動機になったのでしょう。ひいてはなぜ村上春樹が『海辺のカフカ』を書かねばならなかったのか、その答えでもあるのだと思います。流刑地にてを実際に読むまではそこら辺のニュアンスがいまいちわからなかったのですが、読んでみてああそういうことだったのかと、リアルに感じることができました。

 カフカという人はお父さんとの間に深い確執を抱えた人です。流刑地にても変身も、おそらくその他全ての作品が、カフカが父親との間にある確執をなんとか清算し、自分の中に位置付けようと、もがき、苦しんだ痕跡であり、それゆえ彼の小説は書かずにはいられない本当に切迫した状況の中書かれたものであると推察されます。

 同時にそれは父親から逃げ出さなければ自分はだめになってしまうと考えるカフカ君にとっても、そういうものをかいた小説家である村上春樹さんにとっても、同じことだったといえるでしょう。彼等にとって、父親との関係は、自分にも理解できない大罪を、激しい苦痛とともに体に刻みつけられ、最後まで分かり合えないまま、意味もなく死んでいくに等しいことだったのです。そしてそのことは直接的に誰かに語ったり伝えたりできることではなく、残酷な現実には到底ありえない処刑機械について綿密に語ることによってのみ、「僕らの置かれている状況を誰よりもありありと説明することができる」ことなのです。

 書くということはある意味人を傷付ける行為だと思います。自分でも気付きたくなかった思いを身を切るような辛さで思い知らされる行為、それが書くということであり、表現ということです。そこまでしないと伝わらない思いがあるということなのです。最近はネットだブログだといって、たくさんの人がいとも簡単に文章を書き、思いを伝えようとし、実際伝わったかのように振るまっています。(私にはそう思えます)しかし書くことで伝わるということを、本当にそんなに簡単に信じていいのでしょうか。私たちは伝えるという行為に対して、文章を書くという行為に対して、もっと慎重であるべきだと思います。(自分もブログ書いてるくせにこんなこというのもなんですが)書くことは自分を傷付けるかもしれない暴力的な力を持っているものであるし、当然その暴力性は他人にも向けられることもあります。その可能性に私たちはもっともっと目を向けるべきなのかもしれません。

 どうでもいいですが私はここの文章は全部、携帯を使って書いています。こんな長い文章を携帯で打つはめになるなんて、携帯は持たない主義だったあの頃の私に教えてあげても、きっと信じないでしょうね。笑。

2006-11-15

サリンジャー 九つの物語

 これまで持っていたのはもちろん新潮文庫、野崎孝訳『ナイン・ストーリーズ』です。やはり野崎訳に対する愛着は相当あるようで中川訳を読んでいて「これは違う!」と本を投げそうになったこともしばしば。しかし読んでいると、訳出の後ろにあるテキストの存在を感じて、ああ、本は訳じゃないよなと思うこともできました。
 特にそう感じたのは「バナナフィッシュに最適の日」。この話自体久々に読んで、自然に泣いてしまいました。どうして私を置いていってしまうの?シーモア・グラース
 コネチカットのよろめき叔父さんは中川訳のほうが好きかなと思います。ストーリーがわかりやすいしラモナもかわいい。野崎訳の決してかわいくないラモナのほうが作者の意図には合っているような気がしますが。それと笑い男もこっちのほうが雰囲気いいです。団長の語り口とかメアリー・ハドソンのかわいさとか。
 逆に対エスキモー戦まぢか、愛らしき口元目はみどりはコアに野崎訳をおしますね。フランクリンなんか全然違う人みたいだ。野崎訳のフランクリンの方がどうしようもないヤツだけどなぜかもらったサンドイッチは捨てられない感があると思う。
 アーサーの方は人物のだめだめ感というより、ジョニーにたいする「チキショウメ」としか言い表しようのない思いがあって、そのもどかしさがこの作品のキモなのかなと思います。妻の浮気相手に妻が帰ってこないと泣きながら電話してしまう、そして妻が帰って来たと嘘をついてしまう悲しいだめさ加減、友人に裏切られているのに気付きもしないくらい相手を信用してしまう純粋さ、相手に強く出れない非マッチョ男は、この時代には許されなかったんだなと。
 テディーとド・ドーミエ・スミスって実はわけのわからない小説だと思っていたのですが、今回読みなおしてみて少し近づけたかなという感触がありました。テディーがシーモアのパラレルであるなら、彼等の先には死しかないということなのでしょうか。アメリカ人的禅の解釈では死だって夢と同じことだよ、これまで何千回と繰り返してきたことじゃないか、となってしまうのかもしれませんね。そりゃ続き書けなくなるよサリンジャーさん...という感じです。
 ナイン・ストーリーズで一番好きなのはバナナフィッシュとエズメという平凡な私ですが、今回読んで、小川のほとりもド・ドーミエ=スミスも全部ぜんぶいいなあと思いました。次は買っておいて読んでない『ハプワス〜』を読みます。倒錯の森等々、読み残してるサリンジャー作品は全て読破したいと思いました。あと沼沢訳のナイン・ストーリーズも読みたいですね。

2006-10-16

マルケス2 エレンディラ

(これでやっと読了本に追い付きました)
 一番好きなのは表題作です。題名には'信じがたい悲惨の物語'とありますが私には幸福な話のように感じられます。市内を引きまわされるベッドに犬の鎖でつながれ、血を見るような屈辱に耐える彼女であっても、そこには人としての価値ある生きかたがあるように感じるのです。金になるからかな?違うよね。良く分かりませんが、ウリセスを振り切って砂漠の中をひた走る彼女をして、この生き方こそ本懐であるなと。アマランタがクレスピの死の上に生き、処女のまま死んでいくのと裏返しであって同じなのです。

「失われた時の海」
 ううむ。この海の底の描写が素直に美しいなあと。マルケスの話って無垢というものがすでに汚れを内に抱えたものとして書かれていると思うのですが(天使でさえ小汚いおっさんだし)この海だけはテラスに白い花咲き乱れる美しい所なんですよね。何か読んだとき安心しました。
 ここにも5ペソで春をひさぐ女の話が出てきますが、そうか、たとえ100人の男の相手をしようとそれで金を得て生きていける強さと、それが許される世界があることが私に救いを感じさせるのかもしれません。
 アメリカ人のハーバート氏が人の価値と金を交換し富の公平な分配と称しますが、それは人の価値に美しい幻想を抱かせないこの世の現実を見事にかいていると思います。兎のように、そしてみみずのように愛し合うトビーアスとクロティルデというのも、愛の中の純粋さと汚辱を感じさせるようです。

 基本的に"大人のための残酷童話"と銘うっているだけあって、どの話も痛々しいです。でもそんな痛々しい世界に生き時には愛し時には殺し合いしているのが私たちなのではないでしょうか。なんかきれいにまとめましたね。

2006-10-15

ガブリエル・ガルシア=マルケス 百年の孤独

『百年の孤独』
 ついについに読み終えました。購入したのはいつだったかな?半分くらいまでは読んでいたのですがその後年単位で放置、心臓を貫かれてを読み終えた勢いでやっと本腰入れて読むことができました。
 一度半分まで読んでいるので名前関係は大丈夫でした。中上健次(超ややこしい家族関係)とドストエフスキー(およそ日本名とも英名とも関係ないカタカナ名)を読んでいたおかげで耐性も付いていたみたいです。人物相関も付いていたしね。ともかく、あまり深く考えず物語のあるがままに読みました。
 これを読んだ後たまたまラテンアメリカ特集をえぬえいちけい(TV)でやっていまして、何回かシリーズのうち二つを見ました。それを見ているとこの物語に書かれていることは決して一作家の空想でもフィクションでもなくて、生きた物語であるのだなということがひしひしと感じられました。何もかも干からびてしまう太陽といつまでも続く午睡、道路を埋め尽す黄色い花も何千人にも及ぶ虐殺も睨むだけで鍋を引っくり返してしまう力も一人の娼婦と寝るためにできる長い行列も誰をも愛さない孤独も、全てそこに生きる人々の間であたりまえにあることなのだろうなと。そして私たちの間にも。
 ネット上の感想文で、この物語は日本人には理解できないという記述を見かけましたが私はそうは思いません。もちろん私は理解できるという傲慢な気持ちではなくて、ただこの物語を読むことでなにがしか感じるものがあり、それが小説を読む意味でしょうから。(何か月並みなこと言ってますね私)
 ともかく!一生に一度は読むべし素晴らしい本です。

 個人的にアマランタとクレスピの話が好きです。アマランタ、素晴らしい女性だ。100の質問で印象に残る女性は?というのがありましたが、いまなら文句なしにこの方です。私も彼女のように生きたい...そしてクレスピに金だらいに手を突っ込ませて死なせるのです。
 結末は読む前から知っていたのですがやはり鳥肌たちました。でも涙が出たことはない。そういう安易な同調を許さないところはあります。ラテンアメリカ、太古から続く人間の本性について語り続ける土地。そしておそらく未来もここにあるのでしょう

2006-09-29

ドストさん2

 カラ兄について語ってはいけなかったなあと思いつつ。先にドストさんをやっつけてしまいます。

『地下室の手記』
 ビバ!ロージャの原型イワンの父!(実体がうすいという意味ではイワンの悪魔に近いものを感じる)前半のしゃべりの部分はドスト節全開で読みにくいのですが、ちまちま読み返しているとだんだん慣れてきて面白く読めました。後半は物語に突入するから(ぼた雪にちなんでね)すらすら読めます。イワンやロージャが言っていることと通ずる考えが出てきて、ドストさんこんな若い時から考えてたんだ、と思うと少し切ないです。

『死の家の記録』
 地下室の手記は薄いからすぐ読めるだろうとたかをくくってたのですがなかなか読み進むのが大変でした。こちらは逆にボリュームの割にものすごーく読みやすかったです。ドストエフスキーじゃないみたいに。笑。というか、素直に読めばいいんだなと、この本を読んでそういう自信みたいなものがつきました。物語のあるがままに読んでいればどこかには行き着くものなのだなと。たぶん著者自身が素直な気持ちで書いたからではないでしょうか、ロシア国民に敬意を持ってね。
 最初私はこの話、作家の日記みたいに、完全ノンフィクションものだと思ってました。でも実は違うのですね。一応語り手がいて名前のある主人公がいて物語形式になっています。たぶん検閲とかの関係ではないかと思いますが。ちなみにドスト氏は主人公と同じく貴族階級だったため体刑はまぬかれたようです←父の代からの成り上がり貴族ですけど。
 別の国の別の時代の、書かれた当時でさえ過去の遺物になっていた(笞刑はドストさんの時代に廃止になったそうな)そんな獄中記ですが一見の価値ありですよ。ある意味夜と霧の逆バージョン。人間どんな境遇におちいろうとも尊厳を持ち続けることができるのですね。

 ロシア国民はこの時代、農奴という被支配階級と彼らが「旦那」と呼ぶ貴族等の支配階級に分かれていました。(ざっと調べたらロシアでは15世紀くらいから始まった制度で、ドストさん40歳の1861年に農奴解放令が出され、農奴制は廃止されたみたいです)お上が勝手につくった身分制度ではありますが、民衆(被差別側)には受け入れられたようですし、奴隷の身に落とされようともロシア国民は人間としての誇りを持ち続けていたようです。「あんたがたは確かにえらい、だがわしらも人間だ、だから平気だ」と、教養さえあれば彼らは言うだろうとドスト氏は言っています。この辺は日本のいわゆる被差別民とも似ている部分です。 (上からの押しつけ制度ではあるけれど、ある程度は人々の間にそのような風潮があったため受け入れられた、とか、差別されながらも聖なるものの直属としての誇りを持ち続けていたとか、>日本の被差別民)
 ロシアの土着の考えはアイヌの考えと似ているのかなあと考えてます。ロシア民衆は知的障害の人を、宗教的奇人(ユロージヴィ/ユロージヴァヤ)といって大切にしていたそうです。(これまたざっと調べたら、正確には知的障害の人をそう呼んだのではなく、ユロージヴィが知的障害の人の様に振る舞っていた、ということのようです)アイヌの人たちはというと認知症のお年寄りを神様の言葉を喋っている神に近い存在として敬っていたそうです。古代日本にもそういう風習があったのでしょうね。私がドストエフスキーの小説を好んで読んでいるのもその辺に理由があるような気がします。(今のところドストさん以外のロシア人作家は読んでないのですが。トルストイはイワンのばかを読んで、かなり嫌いになったのでもう読みません。チェーホフは読みたいと思っていて←これもサハリン島記だし、笑、あとはイサク・バーベリですかね。貧しい...)

『罪と罰』
 読んでみて、ずいぶん内容を忘れてしまっていたことが分かりました。前回とは訳を変えて、工藤さん訳。(前は岩波で江川さんだったよね)訳が変わったせいなのかどうか、スヴィドリガイロフがなんかだいぶ違いました。前はもっとイノセントな感じで、死ぬ前に見る幻想の奇妙なほどまぶしく美しい景色を、やたら印象深く覚えていたのですが。ほとんど罪と罰といえばスヴィドリガイロフというくらいに(これ、何にも分からず読んでた割にあながち間違いではないようです)
 ロージャが判決を受けたのは25歳、今の私と同い年。今読んでおいてよかったです。

2006-09-12

ドストさん1

『カラマーゾフの兄弟』

 確か村上春樹さんが、この長いともいえない人生の中でこんな長い小説を3度も読んでどーたらこーたらと言っていたように思うのですが、私も3回読みました。3度読んだ感想は読めば読むほど面白いの一言に尽きます。まだまだ読みたいです。
 今回は訳を変えて読んでみたのですが、確かに米川訳より読みやすい←時代が下ってるんだからあたりまえ。でもこの原さんていう人、たぶんアリョーシャの事がとくに好きではないんじゃないでしょうか。細かいセリフの訳なんかに???というところが数箇所("「今すぐここから出てってください!」高圧的にアリョーシャが叫んだ"とか。米川訳だと"威を帯た声で")イワン主人公説に賛同している人なのかなと思いました。それと米川訳ではなんとなく人生を達観しているようでかっこいいフョードル父さんがただの(本当にただの)道化のようだったり。原訳でさらっとストーリーを掴んでから、米川訳で生き生きした人物像と世界観を楽しむ、みたいな感じなんですかね。他の人の訳もぜひ読んでみたいです。

 毎回読む度にひっかかるのが大審問官です。今回は特に自分の仕事のこととからめて、たくさん思うところがありました。思いきって上司の人と話してみたのですが、うまく説明できなくて「だって神様とか信じてないし」とかいう話しになってしまいました。うーん。キリスト教的な神様の話は抜きにして、人には二種類の人間がいる、一つは持つ者でもう一つは持たざる者である、持たざる者には持つ者が与えてやるのが世界のさだめだ、という大審問官の主張に、反発する材料がないんですよね。たとえ偉大な真理に到達できずとも日々のパンの方をどうしようもなく大切にしてしまう幾千万の民衆を、見捨てることができるだろうか?キリストはそれらの人々を見捨てろと教えるけれど(キリスト教ってそういうの多い)その人々をたとえ支配と隷属という関係のうえであっても抱え続けた老審問官を、本人がいうとおり、批判することができるのかな?
 これって今の私が仕事にしている事と違うんだろうか?言葉もなく体も動かない人に寄りそい、一緒にいることを仕事にしている私たちと。
 上司の人たち(二人いるんですが。こういう話ができる人は)は、自分が選んでそうなった人と、選ぶ余地なくそうなっている人は違うと言っていて、今のところ未消化ではあるけれど、それが私の答えの一つになっています。
 大審問官が投げつけたこの問いの、作品の中での答えはイエスの接吻なんですね。すべてを許すことのできる方がいる、イエス・キリストだというアレクセイの言葉は、けれどあまりに弱い。もちろんその後のゾシマ長老の説法の中にも答えが示されているはずなわけですが...次の私の課題はゾシマ長老最後の説教の中に、社会主義に対する警告以外のものを読みとることですかね。(←これは解説にも書いてある事だから)

 前に"本好きさんへの100の質問"の回答で、心に残る名ぜりふを『悪霊』の中から選びましたが(その時ちょうど悪霊読んでたから)今ならカラ兄からこう答えます。アレクセイが送るコーリャへの言葉「ねえコーリャ、君は将来、非常に不幸な人間になりますよ。」(中略)「だが、ぜんたいとしてはやはり人生を祝福なさいよ。」

 コーリャ・クラソートキンは私と似ています。もうちょっと頑張ったら'偉大な真理'に気付くことができるのに、一生それを手にすることができない不幸な人間、アレクセイにそう言われたようで辛かったです。でも同時に"「あなたもすべての人たちと同じです」アリョーシャは語を結んだ。「つまり、大多数の人たちと同じですが、ただみんなのような人間になってはいけません、ほんとに。」"とも言っている。自分は特別な人間なんかじゃない、鼻高のコーリャには(そして私には)きつくも感じられる言葉ですが、なぜだか救いのようにも感じられるのです。

2006-09-08

それからの読書歴

 『サドン・フィクション2』を読み終えた時、今なら読めそうだと思ったのです。『心臓を貫かれて』上下巻のうち下巻だけを持っているというなんとも中途半端なところで滞っていた読書欲が戻ってきたのです。
 (なぜ上巻を買ってないのかというと、下巻を置いていた店の上巻が日焼けして汚かったからです。代わりのありますかと聞いてもないとの事。そのまま放って置くこと2年あまり)
 『心臓を貫かれて』(マイケル・ギルモア著)とても面白く読めました。面白くと言っていいのか分からないですが。泣けてしまって前に進めないこともしばしば。でも本当に読んでよかったです。

以下それから読んだ本
『カラマーゾフの兄弟』 (新潮文庫)
『謎ときカラマーゾフ』 江川卓著
『カラマーゾフの兄弟』 (岩波文庫)読み返し
『百年の孤独』 ガルシア=マルケス著
『地下室の手記』 ドスト
『死の家の記録』 同上
『罪と罰』 同上(新潮文庫)
『九つの物語』 (集英社文庫)
『ナイン・ストーリーズ』 (新潮文庫)
『エレンディラ』 ガブリエル・ガルシア=マルケス

2006-06-12

Sudden Fiction 2 超短編小説・世界篇

 ダントツは「最近のある日」ガブリエル・ガルシア=マルケス(コロンビア)と 「一九八三年八月二十五日」ホルヘ・ルイス・ボルヘス(アルゼンチン)です。 ありきたりですみません。でも心底すげえと思ったよ。この二人の本は絶対読もうと思ってます。

最近のある日
 短い話なのにナニ?この雰囲気、村長の感じている虫歯の冷たい痛み、淡々とひどい苦痛をともなって抜かれる歯、むしろ優しさをこめて語りかけられる言葉「私たちの仲間を二十人死なせた報いだね」 しびれました。ママ・グランデの葬儀、買って読みます。(百年の孤独はやっと読み終えましたので)
 たぶん近い時期に自分が親知らずを抜いたことも関係してると思うけど。笑。この話のおかげで超怖かったわ。

一九八三年八月二十五日
 言うことなし、ただただ圧倒されました。幻獣辞典(だっけ?)が欲しいのですが、高ーい!(余談ですが最近読みたいと思うものが高い本ばかりで困っています。パトリック・ホワイトの『ヴォス』とかも読みたいのに、上下巻で文庫が出てないなんてあんまりです←ノーベル文学賞にヨワイあほ)

その他よかったと思うもの。
○「右翼主の死」 スチュアート・ダイベック(米)
○「ブラックベリー」 レズリー・ノリス(ウェールズ)
 「娘」 ジャメイカ・キンケイド(アンティグア)
  「狐の棲む穴」 マーク・ヘンプソン(米)
○「じゃあね、あなたのたった一人の母親より」 デイヴィッド・マイケル・キャプラン(米)
○「笑い屋」 ハインリヒ・ベル(独)
○「監査役会へようこそ」 ペーター・ハントケ(オーストリア)
○「サンフランシスコの天候」 リチャード・ブローティガン(米)
  「ブルー」 デイヴィッド・ブルックス(豪)
○「準備」 ケネス・バーナード(米)
○「川で」 パトリシア・グレース(ニュージーランド/マオリ)
  「グレゴリー」 パノス・イオアニデス(キプロス)
  「小川のほとりで」 バリー・ユアグロー(南アフリカ/米)
  「なくした鍵」 ポール・ミレンスキー(米)
  「「殺す」という動詞」 ルイサ・バレンスエラ(アルゼンチン)
  「傘で私の頭を叩くのが習慣の男がいる」 フェルナンド・ソレンティーノ(アルゼンチン)
  「ファミリーアルバム」 シヴ・シーデリング(スウェーデン/米)
  「著名なマイム師、最後の日々」 ピーター・ケアリー(豪)
  「靴ならし」 ダニエル・ブーランジェ(仏)

 とは言うものの、結構落としました。半分に絞るのも大変でしたね。これを入れるならこっちもだろ、と思うものも多かったのですが(たとえばブラックベリーを入れるなら黒犬は?とか小川のほとりでと逮捕してくれはどっちだ?とか)とりあえずは。特に良かったと思うものに丸を付けてみました。
 なぜか米国の物が多いですね。(編集段階で多いから仕方ないのだけど)あと南米つよしですね。ドイツ系(オーストリア含む)が好きなのは知ってたけど、ちょっと笑った。「川で」に軍配を上げるのは反則というか編集者の意図に乗せられてる感がしてちょっとむかつくのですが、でもいいと思ったので仕方ないです。
 一般的に評価が高いらしい(無知ですみません)イタロ・カルヴィーノ、イサーク・バーベリ、コレット、フリオ・コルタサルが入っていないのが気になりますが、ここに載っている短編に関してはあんまり...ということです。(川端は元から苦手なのだ)イサク・バーベリはもうちょっと読んでみたいなあと思っています。

 『Sudden Fiction 長短編小説70』よりは断然ヒット率が高いのでまだの方は是非読まれるといいです。読書の至福です。