2006-09-12

ドストさん1

『カラマーゾフの兄弟』

 確か村上春樹さんが、この長いともいえない人生の中でこんな長い小説を3度も読んでどーたらこーたらと言っていたように思うのですが、私も3回読みました。3度読んだ感想は読めば読むほど面白いの一言に尽きます。まだまだ読みたいです。
 今回は訳を変えて読んでみたのですが、確かに米川訳より読みやすい←時代が下ってるんだからあたりまえ。でもこの原さんていう人、たぶんアリョーシャの事がとくに好きではないんじゃないでしょうか。細かいセリフの訳なんかに???というところが数箇所("「今すぐここから出てってください!」高圧的にアリョーシャが叫んだ"とか。米川訳だと"威を帯た声で")イワン主人公説に賛同している人なのかなと思いました。それと米川訳ではなんとなく人生を達観しているようでかっこいいフョードル父さんがただの(本当にただの)道化のようだったり。原訳でさらっとストーリーを掴んでから、米川訳で生き生きした人物像と世界観を楽しむ、みたいな感じなんですかね。他の人の訳もぜひ読んでみたいです。

 毎回読む度にひっかかるのが大審問官です。今回は特に自分の仕事のこととからめて、たくさん思うところがありました。思いきって上司の人と話してみたのですが、うまく説明できなくて「だって神様とか信じてないし」とかいう話しになってしまいました。うーん。キリスト教的な神様の話は抜きにして、人には二種類の人間がいる、一つは持つ者でもう一つは持たざる者である、持たざる者には持つ者が与えてやるのが世界のさだめだ、という大審問官の主張に、反発する材料がないんですよね。たとえ偉大な真理に到達できずとも日々のパンの方をどうしようもなく大切にしてしまう幾千万の民衆を、見捨てることができるだろうか?キリストはそれらの人々を見捨てろと教えるけれど(キリスト教ってそういうの多い)その人々をたとえ支配と隷属という関係のうえであっても抱え続けた老審問官を、本人がいうとおり、批判することができるのかな?
 これって今の私が仕事にしている事と違うんだろうか?言葉もなく体も動かない人に寄りそい、一緒にいることを仕事にしている私たちと。
 上司の人たち(二人いるんですが。こういう話ができる人は)は、自分が選んでそうなった人と、選ぶ余地なくそうなっている人は違うと言っていて、今のところ未消化ではあるけれど、それが私の答えの一つになっています。
 大審問官が投げつけたこの問いの、作品の中での答えはイエスの接吻なんですね。すべてを許すことのできる方がいる、イエス・キリストだというアレクセイの言葉は、けれどあまりに弱い。もちろんその後のゾシマ長老の説法の中にも答えが示されているはずなわけですが...次の私の課題はゾシマ長老最後の説教の中に、社会主義に対する警告以外のものを読みとることですかね。(←これは解説にも書いてある事だから)

 前に"本好きさんへの100の質問"の回答で、心に残る名ぜりふを『悪霊』の中から選びましたが(その時ちょうど悪霊読んでたから)今ならカラ兄からこう答えます。アレクセイが送るコーリャへの言葉「ねえコーリャ、君は将来、非常に不幸な人間になりますよ。」(中略)「だが、ぜんたいとしてはやはり人生を祝福なさいよ。」

 コーリャ・クラソートキンは私と似ています。もうちょっと頑張ったら'偉大な真理'に気付くことができるのに、一生それを手にすることができない不幸な人間、アレクセイにそう言われたようで辛かったです。でも同時に"「あなたもすべての人たちと同じです」アリョーシャは語を結んだ。「つまり、大多数の人たちと同じですが、ただみんなのような人間になってはいけません、ほんとに。」"とも言っている。自分は特別な人間なんかじゃない、鼻高のコーリャには(そして私には)きつくも感じられる言葉ですが、なぜだか救いのようにも感じられるのです。