2008-03-30

カラ兄弟

 第六 スメルヂャコフ
 しかしあるいは永年の間こういう印象を積み重ねたあげく、突然すべての物をなげうって、放浪の苦行のために、エルサレムをさして出て行くかも知れないが、また或いは不意に自分の生まれ故郷の村を、焼き払ってしまうかもしれない。ことによったら、両方とも一時に起こるかも図られぬ。

2008-03-24

カラ兄弟

 第三篇 第二 リザヴェータ・スメルヂャーシチャヤ
 一つ、この事件(知的障害の女性がレイプされ子どもができた)は父の持ち村チェルマシニャーで本当に起こったこと、らしいです。(ソースが出てこないのですが見つけ次第書きます)
 一つ、前に子どもは無垢だとか、知的障害の人は純粋だという見方が、まだ世間では横行している、と書きましたが、ドストさんのスタンスは(暗にしか書かれてないことですが)子ども、あるいは子どものような大人としての知的障害者を、性的な対象として見る、というものです。これは倫理の面から考えても、(文学に倫理を持ち込むのは私は違うと思うけど、その話は置いといて)簡単に良しとしてしまうわけにはいきませんが、少なくとも、事実から目を背けて、あるいはそれを疑ってみることもせず、単に子ども=純粋と信じきってしまっている人の考えより、私は承知しやすいと思っています。

 第三 熱烈なる心の懺悔――詩
 フョードルの隣の家に住んでいる母娘の娘のほうは、かつては高い身分の人のところで働いていて、今は貧乏になって、食べ物の無心をすることさえあるが、服だけは売らなかった、そのうちの一着には長い尻尾がついている、とのことですが、アリョーシャはこのうちの隣を抜けようとしているとき、その尻尾のことを思い出してふと顔を上げ、結果兄のミーチャに会うことになります。この、尻尾のことを思い出して、というのが今回妙に気になりました。なぜに尻尾? (多分性的な意味よな) (いや違う、尻尾→悪魔だ)

美の中では両方の岸が一つに出合って、すべての矛盾が一しょに住んでいるのだ。

2008-03-12

宮崎駿 もののけ姫

 宮崎映画の中で1番好きなのはと考えると『もののけ姫』かなと思います。私の周りでは評判悪いんですけど。
 良くないという人は宮崎駿は『(漫画)風の谷のナウシカ』で終わってるんだから、いつまでも映画作ったりしないで早く引退すればー?という意見で、それはなんとなく分かる気もします。笑。
 が、その人は「エボシなんてまんまクシャナじゃないか」というようなことを言っていましたが、ちょっと違うんじゃないかと今回見ててふと思いました。エボシはクシャナというよりナウシカの暗黒面、夜叉の部分を強調した人なのかなと。クシャナは傷付いた鳥ではあるけれど決して優しくはない。(これ間違いだったな。「竜はみんな優しいよ、優しくて愚かだ」by湯婆々というセリフをあわせて考えると、クシャナって傷ついて飛べない優しくて愚かなドラゴンですよね。『ナウシカ』4巻を見てそう思いました。ちょっとそれるからこちら)エボシがライ者の「腐った肉を洗い布をまいて」あげた姿というのはナウシカの持つ慈悲の心を思い出します。まあクシャナがそもそもナウシカの別バージョンなんで当たり前かもしれませんが。

 『ナウシカ』から『もののけ』への移行で、面白いなと思ったのはセルム=サンの入れ換えです。二人は同じ「森の人」であるのに男女が入れ替わっただけであんなに違う性質をもつのか、と。ナウシカの性質はアシタカに引き継がれているのにね。逆にいうとセルムの持つ悲しみとか怒りって漫画ではかかれていませんが、森の人は蟲使いの末裔で、蟲使いは賤民といわれる地位にあるというのは、その辺のほのめかしなのかもしれませんね。

 もののけで1番好きなシーンはライ者のオサが「生きることはまことに辛い、だが生きたい、どうか愚かなわしに免じて....」というところです。あのシーンは何度も見た。そして何度見ても泣きます。(もののけ姫ってもう10回以上繰り返して見てるなあ)

 でも次点はアシタカがサンを抱きしめて、「すまない、なんとか止めようとしたんだ」というところ。美しいシーンです。どうしたって癒されない怒りも悲しみも、全て抱きしめて生きていこうというアシタカ君に惚れます。

 エボシがアシタカに「さかしらにわずかな不運をみせびらかすな、その右腕切り落としてやろう!」というセリフもいいです。エボシ様は「売られた娘をみるとみんな引きとってしまう」と言われているように、虐げられた人たちに対する情が半端なくありますね。エボシの服装から見て彼女の出時はおそらく白拍子(遊女)であろうといったのは網野善彦氏。エボシという人は人生の苦汁をなめてなめてなめつくして、あそこまでたどりついた人なのでしょうね。アシタカの呪われた腕など鼻で笑うくらいに。

 アシタカがカヤから貰った小刀をサンにあげちゃうのが、ちょっと引っ掛かっていたんですが、二人の声優さんが実は同じ人であることを知り、納得しました。カヤをいつも思うことと、サンと共に生きることは、少なくとも物語上はつじつまがあうんだと分かって、ほっとしました。

 男女の入れ換えといえば、母であるモロの声を美輪さんがし、主人公の気持ちを歌った歌を米良さん(この人はバイセクシャルなんだそうですね)が歌っているというのも意図的なものかもしれません。
 あと、姫と呼ばれる高い位にいる女(サンとエボシ(エボシは姫ではないが))が、実は「あわれで醜い」女であったり、遊女であったり、そのへんの転換も面白いです。またこの時代遊女の地位は決して低くはなかったはずです。まあ娘たちが売り買いされているわけだから、それなりにさげすまれた身分なのでしょうが、一国の主にはなれないこともない、そんな感じでしょうか。
 『もののけ』の舞台がこの時代(平安末期~鎌倉ごろ)であるのは確信的です。聖穢、生死、穢と汚、聖と性などなど、価値の根本的転換が起こった時期(つまりは神殺しのあった時期)ですから。

2008-03-10

太宰治 きりぎりす

「燈籠」
 小学生だった私がこの小説を読めたのはひとえに漢字が少なく平明な女性の一人称語りだったから、だろーなあ。

「黄金風景」
 私は太宰は『津軽』が一番好きなんです。黄金風景はそのひながたです。

「畜犬談」
 笑っちゃいますよね。犬ごときにすんごい言い回し使って、見たこともないむつかしい語句使って。でもだんだん読んでいくうちにあたたかい気持ちになります。私の中では太宰といえば津軽か畜犬談、なくらい好きな作品です。すごいいい人ですよねえ。

「風の便り」
 もし太宰が自殺しなければ(という仮定は意味をなさないような気もしますが)井原のような作家になっていたはずですよね。そんな太宰を私は見たかったな。
 「トカトントン」のロングバージョンとも考えられ、トカトントンであれほど愚かで奢った人物としてしかかかれていなかった、答える者が、ここまで掘り下げられたということに、素直に太宰という人の豊かさ深さを感じます。

2008-03-02

マイケル・ギルモア 心臓を貫かれて

「俺はおまえを殺しに行ったんだと思う。たぶんそうなったことだろう。おまえにも選びようはなかっただろうし、俺のほうにも選びようはなかっただろう」。

カラ兄弟

 無事『心臓を貫かれて』を読み終えたので、戻ってきました。
 ものすごくジャストタイミングに第二篇第五アーメン、アーメンです。ゾシマ長老の言うに「すべて、今のように流刑に処して懲役につかせる(以前はそれに笞刑まで加わっていたのじゃが)、そういうやり方は決して何人を匡正することは出来ませんじゃ
 これってゲイリー・ギルモアにまんま当てはまる言葉ですね。
 信仰とか教会とかを狭義に考えると、私キリスト教信じてないしで話が終ってしまうわけですが、ドストさんがここで言っている"社会全体が教会になるべきだ"とか"教会が与える罰こそが真に人間を正すものだ"とかいうときの教会は宗教を越えて、一つの人間より高次の存在を表しているのかと思います。それは不死であって、アリョーシャがそのために生きると誓ったものであって、すごく広い意味での愛です。たぶん父なるものと呼ばれるものです。
 しかしゲイリー・ギルモアの最期の言葉が「いつもそこには父親なるものがいる」であることを考えると、彼を許すのも父なるものであるなら、罰するのも父であるのですね。(だからこそ「父殺し」の主題がでてくるわけかあ)
 信仰を失うことが父親からの許しを失うことを意味すると考えると、100年以上も昔に書かれたこの小説が正確にゲイリー・ギルモアの事件を予言していたのだな、と、背筋の寒くなるような、100年以上たった今もアーメン、アーメンの祈りは届かないのだなと、むなしくなるような、そんな気持ちです。
 ゲイリーは頭がよくて、詩的に生きる人だから、カラマーゾフの兄弟は読んでいたかもしれませんね。ゾシマがイワンに向かっていう、その問題は解決されることはない、それがあなたの苦しみです、けれど、そのような高邁な心を授けられたことに感謝なさい、そしてその問題があなたの生きているうちに解決されますように、という言葉にイワンが殊勝に応えるさまが胸にひびきます。