2007-12-12

誤解

 昨日は愕くべきことがありました。私にとってこの人には誤解されたくない、この人には分かってもらいたい、そのためには言葉を尽くして説明する労は惜しまない、という人が何人かはいるのですが、(そんなに数は多くはありません)そのうちの一人から多大な誤解をされていることが判明したのです。私の仕事についてのことです。
 さくっと内容を書いてしまうと、(書いちゃっていいのかちょっと疑問もあるのですが書いちゃいます)「(知的)障害が重い人と軽い人と、と言ってしまうと嫌らしいけどな、比べると、やっぱり軽い人との方がこちらが受け取れるものは多いと思うよ」(だからもっと障害が軽い人のいるところに仕事を変えれば?というのが暗メッセージ)

 私はあまり自分の仕事の内容についてはここには書いていないし、これを読んでくれている人に私の仕事が理解されているかといえば、たぶんあまり伝わっていないだろうなと思っています。それは一つにやはり守秘義務があるから、軽々しく私が日々接している人たち(利用者と呼ばれる人たち)については書けないと思っているからであり、もう一つには私のしている仕事があまりに特殊なものであるということがよく分かっているからです。
 しかしここではSさんと私のことは書きました。Sさんはいわゆるところのガイドヘルプ(移動支援)の利用者であり、私は彼女にとってヘルパーです。でも、読んでもらって分かるとおり、(分かってもらえていると私は信じているのですが)私たちの関係は「利用者とヘルパー」という関係におさまりきるものではありません。私たちは人と人として接しているし、人と人として接している以上、そこには何らかの伝えるべきことがあり、お互いに伝え合い、感じとっている、「受け取れるもの」は当たり前に存在し、私はそれを受け取り、彼女も受け取っていると思っています。それはいうまでもなくSさんの障害が重いとか軽いとかいうのとはまったく関係のないことです。

 一般的に見て、Sさんは障害が重い部類に入ります。電車に乗る事が困難です。お昼ご飯を食べるのにお店に入ることはできません。そもそも外出をすることが難しく、(だからこそわれわれヘルパーがついているのですが)電車に乗って出かける、出た先でお昼を食べて戻ってくる、ということができるようになるまで、数年かかっています。そしてもちろんそれがゴールではありません。「楽しく外出し、楽しく過ごすこと」が目標です。が、それはとても難しいことです。ヘルパーが一人だといろんなことが難しいので、二人つくことも多いです。三人ついたことさえあります。(一つの例、大きな問題として、外出先でトイレに入れないということがあります。本人さんもトイレに行けないのは困りますが、(Sさん自身はトイレが固い=あまり頻繁に行かなくても平気なのであまり困っていませんが。笑)ヘルパーが我慢しきれなくなって大変困った、ということが過去に何度もありました。ちなみに私はガイド中にトイレに行きたくなって困らないように、彼女のガイドのときは朝から水分を取らないようにしています)
 一般的に見て彼女の障害は重い、と書きましたが、実はそこのところが一番伝わりにくいところでもあります。というのは障害者自立支援法における障害程度区分(介護保険でいうところの要介護度。要介護度は介護度1~5と要支援と自立の7段階に介護度を分けるもの。(市町村によって多少違う)あなたのじいちゃんかばあちゃんに「要介護度どうだった?」と聞いたら、「要支援1だった」とか「自立だった」とか答えてくれると思います。全ての65歳以上の方が、この判定を受けています。(はずです。あれ?)(嘘、65歳以上で申請した人だけ。申請制というらしいよ。ソースが見つかんないけど、現役学生に聞いた)これについて語りだすと止まらなくなりますが、一ついえるのは、「体の障害はこの区分である程度正しく査定されるけれど、体は元気な認知症の重い人は判定が軽く出がち」というのがあります)が彼女はそれが大変に低いのです。実際に介助に入っている身からありていに申せば、考えられないくらい低く出ています。それは自立支援法の大きな大きな大きな問題点でもあますが、同時に世間の無理解でもあり、私の仕事を特殊たらしめている要因でもあります。

 少し話がずれました。ずれた上に上記の事は本当に書いていいことなのかどうかちょっと判断に迷うので、そのうち削除するかもしれません。でも、是非に分かって頂きたいことでもあります。
 話を戻すと、私は上の発言をした人には、私の仕事の特殊性と、けれどそこから受け取れるものの大きさ、重さ、美しさ、有難さをこれまで言葉を尽くして説明してきたつもりでいました。まさかその当人から、そんな発言を聞くことになるとは思わなかったのです。あまりの事に呆然として、けれどある種の諦観から、反論することもしませんでした。私はもちろん「いや、障害の重い人のほうがより多くのものをくれる」と言っているのではありませんよ。障害が重かろうが軽かろうが、そこで受け渡しされるものは、数限りなくある、というより障害があろうがなかろうが、人と人とが関係している中で伝え合うものががないとか少ないとか、そういうことはあり得るはずがない、そういっているだけです。(これって当たり前の事ですよね。誰しも他人に伝えたいことを持っているし、理解したいと思うものを他人の中に見出す、相手が誰であれ、その人のことを分かりたい、その人にこそ私を分かってほしいと思うことが、特殊な事だなんて思いたくない)ただ障害が重い人との場合、世間的に価値があまりないとされるようなことだとしても、ただ伝えられたということに輝かしい価値がある場合がある、それが「ガイド中の出来事」の記事の中で伝えたかったことです。

 それともう一つ、障害が軽い人との場合(特に知的な障害が軽い人との場合)二人の関係性がそれこそ「利用者とヘルパー」になってしまうことが多いと感じます。私はそういう一方的なコマ的な使われ方をすると、非常に消耗を感じます。障害が重い人との場合、それは人間性のがちんこ勝負になることが多い(というかそういう方法しか取れない=障害が重い、なので)ので、そういう意味で障害が重い人との方が、かえって私は負担を感じない、というのはあります。もちろん利用者の方にとっては、その人でないとサービスが受けられない、というのは困ったことであり、ここ数年福祉の理念に「利用者とサービス提供者」という考えがどんどん浸透していっているのも、相手が誰であれある一定の質の高いサービスが受けられるのが、障害を持つ人の権利である、という考えがあってのことです。もちろんそれは分かっていますが、実際この仕事をしていて思うのは、福祉というのは結局のところ人と人との問題なので、関係性を断ち切ったモノとして扱うこと、「サービスと利用という形」にすることはどだい不可能なのではないかということです。これは学生時代にも同じようなことを言っていますね。(本サイト、福祉関係文書の中の、「福祉ということ」です)

 また話がずれたので戻します。私は「この人には分かって欲しい」と思っていることについては、言葉を尽くし、誠意を持ってきちんと説明さえすれば、それは必ず伝わるものだ、と、どこまでもイノセントに信じているところがあります。もし伝わらなかったとすれば、それは私の説明が悪かったからなのだ、もっときちんと話せば、思いはきっと通じるはずだ。(だからここにブログを持って、こんなに一生懸命書いているのですよ)それが信念です。
 同時に「この人にはどんなに言葉を尽くして説明してもきっと分かってもらえないだろう」と思うこともあります。割りにそこの判断は早くて、一度あきらめた人にはとことん何も説明しません。そもそも交流しません。(いやな性格だ。もちろん友だちは少ないです)だからこそ「きっと分かってもらえるはず」と尻尾を振って目をきらきらさせている犬のように純真に信じている人に、「分からない」と言われること、あるいは無理解を示されることには、非常なショックを受けます。

 そういう話を上司(男女各一名、今私が最も懐いている人たち)としていたのですが、「人と人とが分かり合えないのは当然なんだよ、だっていろんな人がいていろんな考え方があるでしょ、分かり合えるときもあれば、そうでないときもあるんだよ」なんて大人な意見を聞かされると、むむむと考え込んでしまいます。たぶんそれが真実なのでしょう、私は「分かってもらえないこともある」事を受け入れなくてはならないのだろうなあと思います。頭では理解できているのですが、難しいです。

 善きこと。
 その上司の、男の人のほうに、就職して間もない頃、話をしていて、私が作家では春樹さんが好きなのだというと、「村上春樹は嫌い、何かの文芸賞の選考委員をしていて、ろくでもないことを言っていたから」と言われたことがあります。私はそれこそ言葉を尽くして、「村上春樹に限って文芸賞の選考委員なんてするはずがない、絶対にない、それは誤解だ」と説明し、私のあまりの真剣さにその人も一考し、自分でネットを繰って調べて、別の誰かと勘違いしていたことを認めてくれました。春樹さんが文壇とかかわるわけないじゃんねえ。

 すみません、仕事のこと、福祉のこと、自分のことの3つが混然としてまとまりのない文章になってしまっていますが、偽らざる今の自分の心境として出しておきます。

ドストエフスキー カラ兄弟

 読んでいます。リアルタイムでお届けしましょう。
 今回は米川訳です。

 翻訳の賞味期限という言葉があるようですが、米川訳を読んでいるとそれについて考え込んでしまいます。米川訳『カラマーゾフの兄弟』岩波文庫版が出版されたのは1927年。確かに最初読んだとき思いました「華燭の典」ってなんだ?って。前後の文脈から結婚式のことであるらしいとは分かりましたが、それにしてもそんな言い方しなくてもいいじゃないって思いました。訳に独特の癖もありますし(二重否定とか。しかしあれはドストさんの文体の癖だったりするのでしょうか)何もわざわざ米川訳で読まなくてもいいじゃないか、と思わないでもない。二重否定、笑。でもあえて今回米川訳なのは、やはり時代を越えて機能する米川イズムにひかれるところがあるからと思います。
 うーん、本当にそうかな。なんかでもね、原さんはまだいいとして、亀山訳には心ひかれないんですよ。結局「エピローグ別巻」のみ買ったけれど、本文はあまり読んでいません。
 さらっと読めちゃうドストエフスキーに意味あるのか?文字が大きくて改行が多くて「クレープを食べてくださいね」というアリョーシャに?イリューシャのお墓にやってくるのがスズメだということに?もって回らない登場人物のしゃべりに?
 やっぱり最後のアリョーシャの別辞は(本のページが)黒々としてないと感じでないと思うんですよ。スズメはやっぱり雀であって欲しい。(すずめは可、ギリで可)"そうではないとは限らないばかりでなく可能である、もはやまったく可能であるといってしまっても一向に言い過ぎではないと私は考えている"みたいな持って回った言い回しがないと、なんか物足りない。
 それともこれは文学的スノビズムに過ぎないんでしょうか?原さんはホットケーキと訳してるしなあ。

 ともかく米川訳です。今更ながらアリョーシャ格好いいなあと思う。レフ(白痴の主人公のレフ)のイメージが強いのでアレクセイにもついふにゃふにゃした男の子のイメージを抱きがちなんですが、「『不死のために生きたい。中途半端な妥協は採りたくない。』」とか言うアリョーシャ、かっこいい。

 しかしいまだに私は一番最初に掲げられている、聖書の引用の、本当の意味が分からないでいます。

誠に実に爾曹に告げん、一粒の麦もし地に落ちて死なずば唯一つにてあらん。もし死なば多くの実を結ぶべし。

村上春樹 ねじクロ 戦前の外務大臣

 ちょっと古い話題ですが。NHKその時歴史が動いた 広田弘毅 の回を見て。

(以下日記から再記載)
2007/9/12 (水) 題名:そうそう

 ねじまき鳥クロニクルを読み返していて気付いたこと。オカダ・トオルさんは自分の名前を戦前の外務大臣みたいなひびきがあるっていうんですね。あともう一回、戦前の外務大臣という言葉はでてきます。(どこか忘れた)これって広田コーキのことなんですかね。こないだNHKでA級戦犯のことやってて、それで知ったんですけど。 今日も10時から広田コーキの番組があります。要チェックです。


で、本題
 広田弘毅という人はもしかしたら、先の戦争の責任を自らのものとして引き受けた、ただ一人の日本人なのではないかなあと、番組を見ながら思いました。
 春樹さんが日本について「楽観はできない」と感じていることの一つに、あの戦争の責任を誰もとっていないんじゃないか、そういう体質は戦後60年以上たった今でも変わっていないんじゃないか、というのがあります。

 今回の首相交代のさわぎの時に世論を席巻していたのは安倍晋三は選挙にやぶれた責任をとって辞任しろ、という意見でした。少なくとも私がテレビをつけるたびに「首相辞任云々」という報道がみられました。
 日本には「水に流す」という表現があり、「水に流せば全ては清められる」という考えがある、だから、例えば政界では、選挙に負けた人が「私の不徳のいたすところです」なんていって、その全責任をとって辞任ということがままある、それで責任をとったことにしてしまう、それでいいのか?それで本当に責任を果たしたことになるのか?といったのは井沢元彦さん。

 報道をみるたび、それを思い出していました。だから、それでも頑張ろうとしている安倍さんにはエールを送っていました。あそこで潰れてしまった安倍さんというのは、日本の変わらない体質にやられてしまった人なのかもしれないなあと。

 その後ウィキペディアの広田弘毅の項を読むと、彼が右よりだったという指摘が。だとすると話が少し違ってきますねえ。(彼は何より天皇にメイワクがかかるのを怖れたそうな)
 うーん、そもそも死刑を受け入れるという行為はまさに水に流すことそのものなのかも。うーんうーん。

2007-12-04

宮崎駿 風の谷のナウシカ-2 

 ようするに何がいいたいかというと、どうしようもなく落ち込んだとき、自分にとって確かだと思えるモノ自明であるモノに触れようとするわけですが、(例えば村上さんの文章を読んだり、好きな映画を見たり)その中に思いがけず悪意を感じたりすると、どうしようもなく揺れてしまうわけです。ねえおかしくない?なんでこんなに、地面が揺れているの?(これじゃまるきり『神のこどもたちはみな踊る』ですね)
 ナーバスになっているだけといえばそれまでですが。うーむ。

宮崎駿 風の谷のナウシカ

 宮崎駿、好きです。彼の映画のエンターテイメント性も好きだし、メッセージも好きです。基本的に彼は人間賛歌の人だと思っています。ナウシカは私にとって、一種の理想でもあります。
 でも同時に、漫画『風の谷のナウシカ』を読むと、私は時々わけが分からない気持ちになります。彼は本当に人間が好きなんだろうか、彼は人間の善性を信じているんだろうか、私たちは存在していい種族なんだろうか、宮崎駿は、本当は、人間は滅ぶべきだと考えているんじゃないだろうか、本当は、誰よりも彼は、人間を憎んでいるんじゃないだろうか。

 ちょっと他にないと思うんですよね、こんなに残酷な描写の多い漫画って。特に物語の終盤、ドルク帝国がナムリスのクーデターによって崩壊してからの、混乱ぶりはすさまじい。支配側にいた僧たちが殺されていきます。彼等は支配層の垢として、あるいはただの見世物として、集団で殺戮されていくのです。打たれ切られ、目をえぐられ、石つぶてを浴び、裸にされ、血まみれになって死んでいく。何百という死体が穴に放り込まれ、あるいはいたるところにうち捨てられています。先帝の軍司令官は、いくつもの死体とちぎれた手足と切り取られまだ血が滴っている仲間の頭部に囲まれ、鎖で岩に縛りつけられています。顔は腫れあがり僧服は血でどろどろに汚れています。兵士が命じます、「石をもってこの男を殺せ!!」「いそげ 皇兄陛下に忠誠を示す機会だぞ」

 書いているだけで胸が苦しい。(いや、文字は暴力だ。気持ち悪くなった人ごめんなさい)私はこの漫画をもう何度も読んでいるけれど、この度外れの殺戮シーンには、いつもいつも軽いめまいすら覚えます。ここに来るまで、既にいくつもの激しい戦闘がありました。人々は火器に焼かれ銃で撃たれ毒に倒れ死んでいきました。

 宮崎駿はもしかしたら、思ったのかもしれません。「見ろ、人がゴミのようだ」

 『となりのトトロ』や『千と千尋の神隠し』に見られるように、彼は基本的にファンタジーを作る人であり、ファンタジーは子どものためにあると考えているようです。(Wikipedia情報)今日、『天空の城ラピュタ』を見てました。ムスカのあのセリフ、あのシーンを見るにつけ、彼の憎悪を感じずにはいられないのです。しくしく。

 しかし漫画『風の谷のナウシカ』の中で私が最も残酷だと思うのは、「庭」の存在と庭の番人のセリフだったりします。

 「愛していないのになぜ あの死神に名を与えたのだ」
 「自分を愛さなかった母への復讐をしたのかね?」

 彼(番人)の存在って一つの究極だと思うんです。母性と男性性の融合。(これは女子目線かもしれませんね)その腕の中の居心地はさぞや....、と思う。そのやすらぎを一度味わって、なおかつそこから出ていくナウシカ。残酷だとおもいませんか。いや、ほんとに恐ろしい作品です。

 どーでもいいけど「蟲」っていう字が携帯で出るのにびっくりした。

2007-09-04

私信

 もう、とうとうという感じで『ねじまき鳥クロニクル』を読み返しはじめました。かれこれこの作品を読むのは10回目くらいになります。
 ここ数ヶ月春樹さんの本を色々読み返しています。旅行記に始まりアンダーグラウンド、約束された場所で等のノンフィクション系、東京奇譚集、神の子どもたちはみな踊る、スプートニクの恋人、それから海辺のカフカ。
 そして『ねじまき鳥』です。昨日と今日とで第1部と第2部を読み終えました。

 10回目にして初めて分かったこと。なんで春樹さんがこの作品と『国境の南、太陽の西』が2つで一つ(のようなもの)と言っているのか。10回も読まないと分からないんなら(その程度の理解力しかないんなら)読書なんてやめちまえ、とも思わなくもないですが、まあそれはおいといて。
 私はこれまでずっと、『ねじまき鳥』という本をオカダトオルの視点からしか見てなかったんですね。だから国境のハジメ君との共通点が分からなかったんです。でもこの話の主役はクミコさんでもあるのですね。少なくとも2部まではオカダトオルは主体的には動いてませんし、第2部までだけ見るとクミコが主役の話なんだと思ったほうが、いろんな事がすっきりします。
 (もちろん第3部からのオカダトオルさんの能動的な動き(それはバットを振るってでも妻を取り戻したいという強い意志として現れる)がこの作品において一番感動するところだと思いますが)

 そうか、そうだよなあ、夫婦の話ってつまるところアニマ/アニムスの話であるものなあ。二人は一人なんだあ。

 気付くの遅っ、とかいわず。こうして何回読んでも新しい発見がある本にめぐり会えたなんて幸せなことじゃないですか。まあ単に読解力が乏しいということかもしれませんが。笑。

 今日は当然仕事だったわけですが、久々に朝起きられなくて、上司にメールを入れて休ませてもらいました。6月7月はそのようにして月のうち半分くらいを休んだり遅刻したり、出勤したものの居られなくなって帰らせてもらったり、そんな感じで仕事を続けていました。普通の会社だったら許されないことで、今理解ある人々に助けられて、まがりなりにも仕事を続けられていることに感謝しています。本当に。
 8月は大分落ち着いて、遅刻早退欠勤ナシで、これまで免除してもらっていたいろんな細かい仕事(例えば送迎車の運転とか)もぼつぼつやり始めてて、このままうまくいくかに思えたのですけどね。そんなに甘かないですね。
 さっきメールがありまして、上司の理解ある寛大な処置に涙、でした。明日は頑張って、這ってでも仕事行きます。

 では。

2007-08-07

宮沢賢治 ガドルフの百合

 『ポラーノの広場』の一編、「ガドルフの百合」です。
 これはなんかすごく分かるなあという感じです。この人は見たもの感じたことをこういう言葉で切り取っていくんだ、ここを見てるんだ、そう思うんだ、なるほどなあ、うん、分かるなあ。
 そんな感じは梶井基次郎の「瀬山極の話」を読んだ時に似ています。もう理屈じゃないんです。感覚的に分かるなあという感じです。
 実は宮沢賢治ってちょっと苦手で、視覚的に美しいとは思う、音的に面白いと思う、でもいま一つピンとこない、と感じることが多かったのです。だからこれまでそれほど熱心に読んできてないし(たぶん教科書で習った以外では『注文の多い料理店』を読んだくらい)銀河鉄道は読み通したことがなかったのです。
 実際、解説の中で「これ分からなかったら賢治は分からない」的な書き方をされている「若い木霊」は全然ぴんとこなかった...。なんか私が詩というものが読めないのも同じ理由による気がします。
 でもさ、「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」(漢字出ない)とかさ、これはちょっとギャグなのかと思うくらい面白いですね。

2007-06-21

ここに書くのもどうかと思うけど

 こんにちは、絶不調towaです。
 どのくらい絶不調かというと、食う寝る遊ぶ、仕事するの全てが今崩壊しております。(生活の根幹がこの4つなのかどうかは置いといて)
 唯一遊びの部分に入るかな、本を読むことだけは、これだけは手放してなるものかと頑張っているしだいです。今日も通勤(今週に入って2回目の通勤)途中に『審判』読んでいました。画家と出会って「みせかけの無罪判決」と「ひきのばし」についての説明を受けたところ。

 手当たりしだい、利用できるものは利用してやろうという気です。不快に思った方はごめんなさい。

 辛くなるとよく本を読みます。部分的に読み返したりそのまま通しで全部読むこともあります。今は『審判』と『枯木灘』を読んでいて、部分的に『そうだ村上さんに聞いてみよう』と『カラマーゾフの兄弟』と『風の谷のナウシカ』(こりゃ漫画だ)読みました。
 カラ兄は大好きな「少年たち」の早熟とイリューシャの章、アリョーシャがコーリャに不幸な人生になるだろうけど、全体としては祝福なさいよ、というところ。暇に任せて新潮版と岩波版を読み比べてました。原訳あんまり好かんといっていましたが、コーリャがドイツ人を評して権威に対するソーセージ的服従(ごめん本手元のないから適当)というところで思わず笑ってしまいました。ユーモアセンスは原さんが上なのか?どっちが原文に近いんでしょうね。なんとなく原さんのほうという気がします。
 ナウシカはナウシカが自分の中の虚無の原を歩いていて、もう歩けない、けど、さっきからずっと、テトが前を歩いている、チククとカイが歩いている、チククが歩けって泣いている、私歩くから、というところです。
 村上本は真剣に自分の人生を村上さんに聞き、村上さんも真剣に答えた「大学に行くことは意味がないのか」の問いのところです。

 全てとは言わないけど、私にも当てはまることなのです。今何をすべきなのか、それすらわかりません。でも、進まなければ。

2007-02-12

マルケス3 ママ・グランデの葬儀-2 

その他短編

 解説にも書いてあることなのですが、マルケスの小説の現実と超現実の境目の揺らいでいる感じが好きです。「火曜日の昼寝」や「最近のある日」のようなリアリズムに徹した話も、「土曜日の次の日」のような現実にはありえない光景も、同列の事として読めてしまう。解説によるとそれは「至難のこと」らしいですが、一読者としてはそのような気負いは感じません。2つの世界を継ぎ目なくつなぎ合わせているのがママ・グランデであるように思います。良く出来ているなあと私が言うと失礼ですね。

「バルタサルの素敵な午後」
 これを読んで、マルケスの人間観がなんとなくわかったような気がしました。マルケスのというよりラテン・アメリカのというか、対欧米、対キリスト教圏というのかな。
 キリスト教では子どもは無垢なもの、天国に一番近いものとされていますし、りんごさえ食わなければ人は無垢でいられたと考えられているようです。でも違うんですよね。それは『蝿の王』を引き合いに出すまでもなく、現代に生きる我々には自明のことでもあります。でもどこかキリスト教的無垢はまだまだ信用され、それにしがみついている人も少なくないようです。(例えば知的障害の人に対するある種の見方に、私はそれを感じます)バルタサルの素敵な午後は、酒の酔いと女たちの軽蔑の視線で終ります。それはもちろん読んでいて胸のすくようなとか感激でいっぱいになるとかいった終り方ではありません。でもやはりこれが真実なのだと思います。


 「最近のある日」は柴田元幸訳で先に読んだわけですが、ううむ、柴田訳の方が断然いいですね。なんか読んだ後茫然としてしまった感じが、柴田訳のほうがあったんですよ。表面は丁寧で穏やかそうな歯医者の内側に潜む、激しい憎しみ、そのギャップに焦点をあてた柴田氏に軍配。個人的にですが。

2007-02-11

ご紹介

 私の前までの本読みのテーマが「生まれてこない方がいい命なんてないなんて嘘」だったというのは、この人の本を読んだせいでもあります。
http://www.morizumi-pj.com/
↑森住卓のサイト

 読んだのは大学生の時で、アフガニスタンの写真集でした。

 もう一つは橋本治『蝶のゆくえ』の、ふらんだーすの犬です。


 今は「どこにも所属できない自分」、ですが、マルケスは故郷から捨てられた(もちろん同時に自分から捨てた)人間ですし、カフカもサリンジャーもユダヤ人にもキリスト教徒にもなりきれなかった人ですし、無理にいうとドストエフスキーも旦那衆にも百姓仲間にも入れなかった人ですよね。

2007-01-25

経過報告

 『予告された殺人の記録』読了。次はカフカ『城』読みます。
 前まで私の読書のテーマは「生まれてこないほうがいい命なんてないなんて嘘だよね」だったんですが、最近は「どこにも属せない(拒絶される)自分」であるようです。