誤解
昨日は愕くべきことがありました。私にとってこの人には誤解されたくない、この人には分かってもらいたい、そのためには言葉を尽くして説明する労は惜しまない、という人が何人かはいるのですが、(そんなに数は多くはありません)そのうちの一人から多大な誤解をされていることが判明したのです。私の仕事についてのことです。
さくっと内容を書いてしまうと、(書いちゃっていいのかちょっと疑問もあるのですが書いちゃいます)「(知的)障害が重い人と軽い人と、と言ってしまうと嫌らしいけどな、比べると、やっぱり軽い人との方がこちらが受け取れるものは多いと思うよ」(だからもっと障害が軽い人のいるところに仕事を変えれば?というのが暗メッセージ)
私はあまり自分の仕事の内容についてはここには書いていないし、これを読んでくれている人に私の仕事が理解されているかといえば、たぶんあまり伝わっていないだろうなと思っています。それは一つにやはり守秘義務があるから、軽々しく私が日々接している人たち(利用者と呼ばれる人たち)については書けないと思っているからであり、もう一つには私のしている仕事があまりに特殊なものであるということがよく分かっているからです。
しかしここではSさんと私のことは書きました。Sさんはいわゆるところのガイドヘルプ(移動支援)の利用者であり、私は彼女にとってヘルパーです。でも、読んでもらって分かるとおり、(分かってもらえていると私は信じているのですが)私たちの関係は「利用者とヘルパー」という関係におさまりきるものではありません。私たちは人と人として接しているし、人と人として接している以上、そこには何らかの伝えるべきことがあり、お互いに伝え合い、感じとっている、「受け取れるもの」は当たり前に存在し、私はそれを受け取り、彼女も受け取っていると思っています。それはいうまでもなくSさんの障害が重いとか軽いとかいうのとはまったく関係のないことです。
一般的に見て、Sさんは障害が重い部類に入ります。電車に乗る事が困難です。お昼ご飯を食べるのにお店に入ることはできません。そもそも外出をすることが難しく、(だからこそわれわれヘルパーがついているのですが)電車に乗って出かける、出た先でお昼を食べて戻ってくる、ということができるようになるまで、数年かかっています。そしてもちろんそれがゴールではありません。「楽しく外出し、楽しく過ごすこと」が目標です。が、それはとても難しいことです。ヘルパーが一人だといろんなことが難しいので、二人つくことも多いです。三人ついたことさえあります。(一つの例、大きな問題として、外出先でトイレに入れないということがあります。本人さんもトイレに行けないのは困りますが、(Sさん自身はトイレが固い=あまり頻繁に行かなくても平気なのであまり困っていませんが。笑)ヘルパーが我慢しきれなくなって大変困った、ということが過去に何度もありました。ちなみに私はガイド中にトイレに行きたくなって困らないように、彼女のガイドのときは朝から水分を取らないようにしています)
一般的に見て彼女の障害は重い、と書きましたが、実はそこのところが一番伝わりにくいところでもあります。というのは障害者自立支援法における障害程度区分(介護保険でいうところの要介護度。要介護度は介護度1~5と要支援と自立の7段階に介護度を分けるもの。(市町村によって多少違う)あなたのじいちゃんかばあちゃんに「要介護度どうだった?」と聞いたら、「要支援1だった」とか「自立だった」とか答えてくれると思います。全ての65歳以上の方が、この判定を受けています。(はずです。あれ?)(嘘、65歳以上で申請した人だけ。申請制というらしいよ。ソースが見つかんないけど、現役学生に聞いた)これについて語りだすと止まらなくなりますが、一ついえるのは、「体の障害はこの区分である程度正しく査定されるけれど、体は元気な認知症の重い人は判定が軽く出がち」というのがあります)が彼女はそれが大変に低いのです。実際に介助に入っている身からありていに申せば、考えられないくらい低く出ています。それは自立支援法の大きな大きな大きな問題点でもあますが、同時に世間の無理解でもあり、私の仕事を特殊たらしめている要因でもあります。
少し話がずれました。ずれた上に上記の事は本当に書いていいことなのかどうかちょっと判断に迷うので、そのうち削除するかもしれません。でも、是非に分かって頂きたいことでもあります。
話を戻すと、私は上の発言をした人には、私の仕事の特殊性と、けれどそこから受け取れるものの大きさ、重さ、美しさ、有難さをこれまで言葉を尽くして説明してきたつもりでいました。まさかその当人から、そんな発言を聞くことになるとは思わなかったのです。あまりの事に呆然として、けれどある種の諦観から、反論することもしませんでした。私はもちろん「いや、障害の重い人のほうがより多くのものをくれる」と言っているのではありませんよ。障害が重かろうが軽かろうが、そこで受け渡しされるものは、数限りなくある、というより障害があろうがなかろうが、人と人とが関係している中で伝え合うものががないとか少ないとか、そういうことはあり得るはずがない、そういっているだけです。(これって当たり前の事ですよね。誰しも他人に伝えたいことを持っているし、理解したいと思うものを他人の中に見出す、相手が誰であれ、その人のことを分かりたい、その人にこそ私を分かってほしいと思うことが、特殊な事だなんて思いたくない)ただ障害が重い人との場合、世間的に価値があまりないとされるようなことだとしても、ただ伝えられたということに輝かしい価値がある場合がある、それが「ガイド中の出来事」の記事の中で伝えたかったことです。
それともう一つ、障害が軽い人との場合(特に知的な障害が軽い人との場合)二人の関係性がそれこそ「利用者とヘルパー」になってしまうことが多いと感じます。私はそういう一方的なコマ的な使われ方をすると、非常に消耗を感じます。障害が重い人との場合、それは人間性のがちんこ勝負になることが多い(というかそういう方法しか取れない=障害が重い、なので)ので、そういう意味で障害が重い人との方が、かえって私は負担を感じない、というのはあります。もちろん利用者の方にとっては、その人でないとサービスが受けられない、というのは困ったことであり、ここ数年福祉の理念に「利用者とサービス提供者」という考えがどんどん浸透していっているのも、相手が誰であれある一定の質の高いサービスが受けられるのが、障害を持つ人の権利である、という考えがあってのことです。もちろんそれは分かっていますが、実際この仕事をしていて思うのは、福祉というのは結局のところ人と人との問題なので、関係性を断ち切ったモノとして扱うこと、「サービスと利用という形」にすることはどだい不可能なのではないかということです。これは学生時代にも同じようなことを言っていますね。(本サイト、福祉関係文書の中の、「福祉ということ」です)
また話がずれたので戻します。私は「この人には分かって欲しい」と思っていることについては、言葉を尽くし、誠意を持ってきちんと説明さえすれば、それは必ず伝わるものだ、と、どこまでもイノセントに信じているところがあります。もし伝わらなかったとすれば、それは私の説明が悪かったからなのだ、もっときちんと話せば、思いはきっと通じるはずだ。(だからここにブログを持って、こんなに一生懸命書いているのですよ)それが信念です。
同時に「この人にはどんなに言葉を尽くして説明してもきっと分かってもらえないだろう」と思うこともあります。割りにそこの判断は早くて、一度あきらめた人にはとことん何も説明しません。そもそも交流しません。(いやな性格だ。もちろん友だちは少ないです)だからこそ「きっと分かってもらえるはず」と尻尾を振って目をきらきらさせている犬のように純真に信じている人に、「分からない」と言われること、あるいは無理解を示されることには、非常なショックを受けます。
そういう話を上司(男女各一名、今私が最も懐いている人たち)としていたのですが、「人と人とが分かり合えないのは当然なんだよ、だっていろんな人がいていろんな考え方があるでしょ、分かり合えるときもあれば、そうでないときもあるんだよ」なんて大人な意見を聞かされると、むむむと考え込んでしまいます。たぶんそれが真実なのでしょう、私は「分かってもらえないこともある」事を受け入れなくてはならないのだろうなあと思います。頭では理解できているのですが、難しいです。
善きこと。
その上司の、男の人のほうに、就職して間もない頃、話をしていて、私が作家では春樹さんが好きなのだというと、「村上春樹は嫌い、何かの文芸賞の選考委員をしていて、ろくでもないことを言っていたから」と言われたことがあります。私はそれこそ言葉を尽くして、「村上春樹に限って文芸賞の選考委員なんてするはずがない、絶対にない、それは誤解だ」と説明し、私のあまりの真剣さにその人も一考し、自分でネットを繰って調べて、別の誰かと勘違いしていたことを認めてくれました。春樹さんが文壇とかかわるわけないじゃんねえ。
すみません、仕事のこと、福祉のこと、自分のことの3つが混然としてまとまりのない文章になってしまっていますが、偽らざる今の自分の心境として出しておきます。
