2006-11-25

ドストエフスキー 永遠の夫

 なかなか普通に面白かったです。トルソーツキイよりヴェリチャーニノフに寄った読み方をしたのですが決して間違いではありますまい。しかし最後までちゃんとした名前を覚えられなかったです。新潮版では憂鬱症と訳されてましたが岩波ではヒポコンデリー(ロージャがかかっているとされてるやつ)でした。多分ヒポコンデリー(心気症か気鬱症という訳が一般的かな?)と言われていればそれほどヴェリチャーニノフに肩入れしなかったと思います。でも彼が見る悪夢の描写とかすごくうんうん分かる分かるという感じで面白かったです。
 二人の名前がそれぞれ、パーヴェル・パーヴロヴィチ・トルソーツキイとアレクセイ・ヴァリチャーニノフというのに何か凍りつきました。スメルジャコフとアリョーシャなんだ...と思って。
 購入したのは新潮文庫のほう。(訳に少し癖があって読みづらかった)岩波文庫のほうは最終章と解説を立ち読みしました。(岩波の方は旧漢字で読みづらかった、ほどでもないか)

2006-11-19

村上春樹 海辺のカフカ (「流刑地にて」を読んで)

 カフカ短編集を読んで村上春樹の『海辺のカフカ』について、その他いろいろについて、書きたいことが出てきたのでちょっとフライングして書きます。

 『海辺のカフカ』の最初の方に、主人公のカフカ君が自分の名前の由来であるカフカの小説について話す場面があります。彼は『流刑地にて』がカフカの短編小説の中では一番好きな作品なのだと言い、それのどんなところが好きなのかひとしきり語ります。そしてそのすぐ後、自分が本当に言いたかったことは伝わらなかっただろうし、「誰にどんなふうに説明しても理解してもらえないだろう」と言います。
 しかし誰にも理解されないそのことこそ、彼が誰かにどうしても分かってもらいたいことでもあるのだと私は思います。それが彼に父親の元から何がなんでも逃げ出さなければならないと思わせ、実際に旅立たさせる一番の動機になったのでしょう。ひいてはなぜ村上春樹が『海辺のカフカ』を書かねばならなかったのか、その答えでもあるのだと思います。流刑地にてを実際に読むまではそこら辺のニュアンスがいまいちわからなかったのですが、読んでみてああそういうことだったのかと、リアルに感じることができました。

 カフカという人はお父さんとの間に深い確執を抱えた人です。流刑地にても変身も、おそらくその他全ての作品が、カフカが父親との間にある確執をなんとか清算し、自分の中に位置付けようと、もがき、苦しんだ痕跡であり、それゆえ彼の小説は書かずにはいられない本当に切迫した状況の中書かれたものであると推察されます。

 同時にそれは父親から逃げ出さなければ自分はだめになってしまうと考えるカフカ君にとっても、そういうものをかいた小説家である村上春樹さんにとっても、同じことだったといえるでしょう。彼等にとって、父親との関係は、自分にも理解できない大罪を、激しい苦痛とともに体に刻みつけられ、最後まで分かり合えないまま、意味もなく死んでいくに等しいことだったのです。そしてそのことは直接的に誰かに語ったり伝えたりできることではなく、残酷な現実には到底ありえない処刑機械について綿密に語ることによってのみ、「僕らの置かれている状況を誰よりもありありと説明することができる」ことなのです。

 書くということはある意味人を傷付ける行為だと思います。自分でも気付きたくなかった思いを身を切るような辛さで思い知らされる行為、それが書くということであり、表現ということです。そこまでしないと伝わらない思いがあるということなのです。最近はネットだブログだといって、たくさんの人がいとも簡単に文章を書き、思いを伝えようとし、実際伝わったかのように振るまっています。(私にはそう思えます)しかし書くことで伝わるということを、本当にそんなに簡単に信じていいのでしょうか。私たちは伝えるという行為に対して、文章を書くという行為に対して、もっと慎重であるべきだと思います。(自分もブログ書いてるくせにこんなこというのもなんですが)書くことは自分を傷付けるかもしれない暴力的な力を持っているものであるし、当然その暴力性は他人にも向けられることもあります。その可能性に私たちはもっともっと目を向けるべきなのかもしれません。

 どうでもいいですが私はここの文章は全部、携帯を使って書いています。こんな長い文章を携帯で打つはめになるなんて、携帯は持たない主義だったあの頃の私に教えてあげても、きっと信じないでしょうね。笑。

2006-11-15

サリンジャー 九つの物語

 これまで持っていたのはもちろん新潮文庫、野崎孝訳『ナイン・ストーリーズ』です。やはり野崎訳に対する愛着は相当あるようで中川訳を読んでいて「これは違う!」と本を投げそうになったこともしばしば。しかし読んでいると、訳出の後ろにあるテキストの存在を感じて、ああ、本は訳じゃないよなと思うこともできました。
 特にそう感じたのは「バナナフィッシュに最適の日」。この話自体久々に読んで、自然に泣いてしまいました。どうして私を置いていってしまうの?シーモア・グラース
 コネチカットのよろめき叔父さんは中川訳のほうが好きかなと思います。ストーリーがわかりやすいしラモナもかわいい。野崎訳の決してかわいくないラモナのほうが作者の意図には合っているような気がしますが。それと笑い男もこっちのほうが雰囲気いいです。団長の語り口とかメアリー・ハドソンのかわいさとか。
 逆に対エスキモー戦まぢか、愛らしき口元目はみどりはコアに野崎訳をおしますね。フランクリンなんか全然違う人みたいだ。野崎訳のフランクリンの方がどうしようもないヤツだけどなぜかもらったサンドイッチは捨てられない感があると思う。
 アーサーの方は人物のだめだめ感というより、ジョニーにたいする「チキショウメ」としか言い表しようのない思いがあって、そのもどかしさがこの作品のキモなのかなと思います。妻の浮気相手に妻が帰ってこないと泣きながら電話してしまう、そして妻が帰って来たと嘘をついてしまう悲しいだめさ加減、友人に裏切られているのに気付きもしないくらい相手を信用してしまう純粋さ、相手に強く出れない非マッチョ男は、この時代には許されなかったんだなと。
 テディーとド・ドーミエ・スミスって実はわけのわからない小説だと思っていたのですが、今回読みなおしてみて少し近づけたかなという感触がありました。テディーがシーモアのパラレルであるなら、彼等の先には死しかないということなのでしょうか。アメリカ人的禅の解釈では死だって夢と同じことだよ、これまで何千回と繰り返してきたことじゃないか、となってしまうのかもしれませんね。そりゃ続き書けなくなるよサリンジャーさん...という感じです。
 ナイン・ストーリーズで一番好きなのはバナナフィッシュとエズメという平凡な私ですが、今回読んで、小川のほとりもド・ドーミエ=スミスも全部ぜんぶいいなあと思いました。次は買っておいて読んでない『ハプワス〜』を読みます。倒錯の森等々、読み残してるサリンジャー作品は全て読破したいと思いました。あと沼沢訳のナイン・ストーリーズも読みたいですね。