2006-09-29

ドストさん2

 カラ兄について語ってはいけなかったなあと思いつつ。先にドストさんをやっつけてしまいます。

『地下室の手記』
 ビバ!ロージャの原型イワンの父!(実体がうすいという意味ではイワンの悪魔に近いものを感じる)前半のしゃべりの部分はドスト節全開で読みにくいのですが、ちまちま読み返しているとだんだん慣れてきて面白く読めました。後半は物語に突入するから(ぼた雪にちなんでね)すらすら読めます。イワンやロージャが言っていることと通ずる考えが出てきて、ドストさんこんな若い時から考えてたんだ、と思うと少し切ないです。

『死の家の記録』
 地下室の手記は薄いからすぐ読めるだろうとたかをくくってたのですがなかなか読み進むのが大変でした。こちらは逆にボリュームの割にものすごーく読みやすかったです。ドストエフスキーじゃないみたいに。笑。というか、素直に読めばいいんだなと、この本を読んでそういう自信みたいなものがつきました。物語のあるがままに読んでいればどこかには行き着くものなのだなと。たぶん著者自身が素直な気持ちで書いたからではないでしょうか、ロシア国民に敬意を持ってね。
 最初私はこの話、作家の日記みたいに、完全ノンフィクションものだと思ってました。でも実は違うのですね。一応語り手がいて名前のある主人公がいて物語形式になっています。たぶん検閲とかの関係ではないかと思いますが。ちなみにドスト氏は主人公と同じく貴族階級だったため体刑はまぬかれたようです←父の代からの成り上がり貴族ですけど。
 別の国の別の時代の、書かれた当時でさえ過去の遺物になっていた(笞刑はドストさんの時代に廃止になったそうな)そんな獄中記ですが一見の価値ありですよ。ある意味夜と霧の逆バージョン。人間どんな境遇におちいろうとも尊厳を持ち続けることができるのですね。

 ロシア国民はこの時代、農奴という被支配階級と彼らが「旦那」と呼ぶ貴族等の支配階級に分かれていました。(ざっと調べたらロシアでは15世紀くらいから始まった制度で、ドストさん40歳の1861年に農奴解放令が出され、農奴制は廃止されたみたいです)お上が勝手につくった身分制度ではありますが、民衆(被差別側)には受け入れられたようですし、奴隷の身に落とされようともロシア国民は人間としての誇りを持ち続けていたようです。「あんたがたは確かにえらい、だがわしらも人間だ、だから平気だ」と、教養さえあれば彼らは言うだろうとドスト氏は言っています。この辺は日本のいわゆる被差別民とも似ている部分です。 (上からの押しつけ制度ではあるけれど、ある程度は人々の間にそのような風潮があったため受け入れられた、とか、差別されながらも聖なるものの直属としての誇りを持ち続けていたとか、>日本の被差別民)
 ロシアの土着の考えはアイヌの考えと似ているのかなあと考えてます。ロシア民衆は知的障害の人を、宗教的奇人(ユロージヴィ/ユロージヴァヤ)といって大切にしていたそうです。(これまたざっと調べたら、正確には知的障害の人をそう呼んだのではなく、ユロージヴィが知的障害の人の様に振る舞っていた、ということのようです)アイヌの人たちはというと認知症のお年寄りを神様の言葉を喋っている神に近い存在として敬っていたそうです。古代日本にもそういう風習があったのでしょうね。私がドストエフスキーの小説を好んで読んでいるのもその辺に理由があるような気がします。(今のところドストさん以外のロシア人作家は読んでないのですが。トルストイはイワンのばかを読んで、かなり嫌いになったのでもう読みません。チェーホフは読みたいと思っていて←これもサハリン島記だし、笑、あとはイサク・バーベリですかね。貧しい...)

『罪と罰』
 読んでみて、ずいぶん内容を忘れてしまっていたことが分かりました。前回とは訳を変えて、工藤さん訳。(前は岩波で江川さんだったよね)訳が変わったせいなのかどうか、スヴィドリガイロフがなんかだいぶ違いました。前はもっとイノセントな感じで、死ぬ前に見る幻想の奇妙なほどまぶしく美しい景色を、やたら印象深く覚えていたのですが。ほとんど罪と罰といえばスヴィドリガイロフというくらいに(これ、何にも分からず読んでた割にあながち間違いではないようです)
 ロージャが判決を受けたのは25歳、今の私と同い年。今読んでおいてよかったです。

2006-09-12

ドストさん1

『カラマーゾフの兄弟』

 確か村上春樹さんが、この長いともいえない人生の中でこんな長い小説を3度も読んでどーたらこーたらと言っていたように思うのですが、私も3回読みました。3度読んだ感想は読めば読むほど面白いの一言に尽きます。まだまだ読みたいです。
 今回は訳を変えて読んでみたのですが、確かに米川訳より読みやすい←時代が下ってるんだからあたりまえ。でもこの原さんていう人、たぶんアリョーシャの事がとくに好きではないんじゃないでしょうか。細かいセリフの訳なんかに???というところが数箇所("「今すぐここから出てってください!」高圧的にアリョーシャが叫んだ"とか。米川訳だと"威を帯た声で")イワン主人公説に賛同している人なのかなと思いました。それと米川訳ではなんとなく人生を達観しているようでかっこいいフョードル父さんがただの(本当にただの)道化のようだったり。原訳でさらっとストーリーを掴んでから、米川訳で生き生きした人物像と世界観を楽しむ、みたいな感じなんですかね。他の人の訳もぜひ読んでみたいです。

 毎回読む度にひっかかるのが大審問官です。今回は特に自分の仕事のこととからめて、たくさん思うところがありました。思いきって上司の人と話してみたのですが、うまく説明できなくて「だって神様とか信じてないし」とかいう話しになってしまいました。うーん。キリスト教的な神様の話は抜きにして、人には二種類の人間がいる、一つは持つ者でもう一つは持たざる者である、持たざる者には持つ者が与えてやるのが世界のさだめだ、という大審問官の主張に、反発する材料がないんですよね。たとえ偉大な真理に到達できずとも日々のパンの方をどうしようもなく大切にしてしまう幾千万の民衆を、見捨てることができるだろうか?キリストはそれらの人々を見捨てろと教えるけれど(キリスト教ってそういうの多い)その人々をたとえ支配と隷属という関係のうえであっても抱え続けた老審問官を、本人がいうとおり、批判することができるのかな?
 これって今の私が仕事にしている事と違うんだろうか?言葉もなく体も動かない人に寄りそい、一緒にいることを仕事にしている私たちと。
 上司の人たち(二人いるんですが。こういう話ができる人は)は、自分が選んでそうなった人と、選ぶ余地なくそうなっている人は違うと言っていて、今のところ未消化ではあるけれど、それが私の答えの一つになっています。
 大審問官が投げつけたこの問いの、作品の中での答えはイエスの接吻なんですね。すべてを許すことのできる方がいる、イエス・キリストだというアレクセイの言葉は、けれどあまりに弱い。もちろんその後のゾシマ長老の説法の中にも答えが示されているはずなわけですが...次の私の課題はゾシマ長老最後の説教の中に、社会主義に対する警告以外のものを読みとることですかね。(←これは解説にも書いてある事だから)

 前に"本好きさんへの100の質問"の回答で、心に残る名ぜりふを『悪霊』の中から選びましたが(その時ちょうど悪霊読んでたから)今ならカラ兄からこう答えます。アレクセイが送るコーリャへの言葉「ねえコーリャ、君は将来、非常に不幸な人間になりますよ。」(中略)「だが、ぜんたいとしてはやはり人生を祝福なさいよ。」

 コーリャ・クラソートキンは私と似ています。もうちょっと頑張ったら'偉大な真理'に気付くことができるのに、一生それを手にすることができない不幸な人間、アレクセイにそう言われたようで辛かったです。でも同時に"「あなたもすべての人たちと同じです」アリョーシャは語を結んだ。「つまり、大多数の人たちと同じですが、ただみんなのような人間になってはいけません、ほんとに。」"とも言っている。自分は特別な人間なんかじゃない、鼻高のコーリャには(そして私には)きつくも感じられる言葉ですが、なぜだか救いのようにも感じられるのです。

2006-09-08

それからの読書歴

 『サドン・フィクション2』を読み終えた時、今なら読めそうだと思ったのです。『心臓を貫かれて』上下巻のうち下巻だけを持っているというなんとも中途半端なところで滞っていた読書欲が戻ってきたのです。
 (なぜ上巻を買ってないのかというと、下巻を置いていた店の上巻が日焼けして汚かったからです。代わりのありますかと聞いてもないとの事。そのまま放って置くこと2年あまり)
 『心臓を貫かれて』(マイケル・ギルモア著)とても面白く読めました。面白くと言っていいのか分からないですが。泣けてしまって前に進めないこともしばしば。でも本当に読んでよかったです。

以下それから読んだ本
『カラマーゾフの兄弟』 (新潮文庫)
『謎ときカラマーゾフ』 江川卓著
『カラマーゾフの兄弟』 (岩波文庫)読み返し
『百年の孤独』 ガルシア=マルケス著
『地下室の手記』 ドスト
『死の家の記録』 同上
『罪と罰』 同上(新潮文庫)
『九つの物語』 (集英社文庫)
『ナイン・ストーリーズ』 (新潮文庫)
『エレンディラ』 ガブリエル・ガルシア=マルケス